個人が、ブログの記事などの定性的で主観的な文章を書くことを支援したり、そのような情報を整理して利用することを支援するシステムを、時間情報を例に検討して試作している。記事の投稿時刻など物理的で客観的な時間情報に比べて、記事本文中に書かれるこのような時間記述を、ITは支援してこなかった。このような時間情報を処理するシステムは、矛盾やあいまいさを排除せず、物理時間への対応付けを要求しないものであろう。
キーワードライフログ、記述的情報、時間
Hitherto, traditional Information Technology has set subjective and qualitative time scale aside. However, there are a lot of communicative documents, which treat subjective time scale, such as "once upon a time", "old days", "soon", etc, especially in blogs and life logs. This paper discusses a possibility to handle such "subjective time scale", keeping physical ambiguity and contradiction, together with a prototype on xfy environment.
Keywordlifelog, narrative information, temporal information
作成: 2008年7月3日
改訂3: 2008年8月2日
これは、当時の発表資料に、発表時およびその後の討議内容から若干の補足をしたものです。
近年、大量に生み出され、蓄積されつつある個人のライフログは時間情報を伴う。
個人にとって時間情報には大きく2種類ある。この報告では、われわれはこれらを「クロノス時間」と「カイロス時間」と呼び区別する。
われわれの研究対象はカイロス時間情報である。なぜならば、人の喜怒哀楽や人生の意義と強く結びついているのはカイロス時間だからである。カイロス時間を扱わなければ、それを《人生の記録》と呼べないのではないか。
時間情報の種類の1つは客観的で自然科学で扱われるような、時間軸にマッピングされる時間である。ICカードマネーの利用で自動的に記録される購買履歴、ブログ記事の投稿時刻や記事に書かれた研究会の開催案内はこれに該当する。
もう1つは、人の主観的な時間である。楽しい夏休みがあっという間に過ぎてしまったとか、今日は気の進まない会議が4つもあって長い一日になりそうだ、などの時間感覚はこれに該当する。
この報告では便宜的に、前者の時間をクロノス時間、後者をカイロス時間と呼ぶことにする。ギリシア語には《時》を表すことがが2つあり、ひとつがクロノス(χρόνος)で《時間》を意味し、もうひとつがカイロス(καιρός)で《時刻》を表す[14]、[13]。
日本語でも《時間》、《時刻》、《時(とき)》の概念は区別して使われる。《時間》は、時刻と時刻の間やその長さを指す。《時刻》は時の流れの一点。《時》は過去から現在、未来へと連続して流れて、空間とともに、そこで物事が起きる場である[16]、[17]。
ここでクロノス時間と呼ぶ客観的な時間概念では、《時間》間隔を計る尺度が国際的に標準化されている。《時刻》は、基準時刻を決めて、標準化された尺度を用いてその基準時刻から計った長さによって表現される。そして、このように数値化された時刻の集まりを直線とすれば、《時(とき)》は、この直線全体に対応する。この直線は時間軸と呼ばれる。
例えば、C言語やJava言語の実装では、時刻を表現するのに、1970年1月1日0時0分0秒UTCからのミリ秒数を用いている。
カイロス時間と呼ぶ人の主観的な時間概念では、時間間隔を一人の個人においてすら比較することが困難である。また、時刻の前後関係も不定であるし、同じ時刻かどうかも、しばしば不定である。従って、物事が起きる場としての時を、なにかしら共通の場として想定するのが困難な場合が多い。確かなのは時刻のみであることから、このような時間をカイロス時間と呼ぶのは妥当であろう。
時間情報処理には様々な隘路がある。それらは、一般的なスケジューラーソフトを使いこなしたり、人との会話の中で、多くの人々が経験していることであろう。
このようなライフログにおける時間情報処理の隘路とアプローチを、前章の時間情報の区別を踏まえて整理することで、われわれの研究対象がどのような問題を解決するものなのか示す。
クロノス時間の処理では、基準時刻が共有されていると仮定して、標準化された時間尺度を使って時刻を測定することで、様々な物事の時刻を比較したり、推定したりといった演算が可能となっている。これによって、時間情報をもとに、大量のイベント情報から特定の時刻間隔に発生したイベントを抽出したりする。
このアプローチではしばしば、時間の測定単位の差、あるいは粒度の差が問題となる。すなわち、異なる粒度の時間情報が混在する場合に、イベント間の時刻比較をどのように定義すれば、業務の役に立つかという課題である。
この課題に対して、たとえば、次のようなアプローチをとることができる[11]。
カイロス時間の処理を検討する前に、まず、文書処理へのわれわれのアプローチを振り返る。
われわれは、XML文書とそれを処理するアプローチにはそれぞれ2種類あると論じ、記述的で定性的な文書の処理には、意味与奪型のアプローチが向いていると結論づけた[7]。
文書あるいは文章には、規範的なものと記述的なものとの2種類がある。事前に正しい用法が定義されたマークアップがあり、それを使って記述できることを前提とした文書が規範的文書である。帳票などがこれに該当する。そのようなマークアップの事前定義を前提としないものを、記述的文書と呼ぶ。
あるいは、文章には定量・コード化された情報と定性的な情報の2種類が含まれる。定量・コード化された情報とは、対象の量的な側面に着目し、尺度を設定して、その数値を用いて記述され、分析される情報がである。ここでは、数値でなくても、あらかじめ用意された分類にあてはめるという意味でコード化と併せて整理する。定性的な情報とは、数値化・コード化されない、するのがふさわしくない情報である。
これらを処理するアプローチには2種類考えられる。1つは、マークアップの意味や構造を具体的かつ厳密に設計して、その意味に従って処理する意味駆動型のアプローチ。もう1つは、マークアップから意味を剥奪した区切りそのものを処理のベースにすることで、対話的な編集の操作性、創造性を高め、深い読みをもたらそうとする意味与奪型のアプローチである。
記述的で定性的な文書は、読み書きにおいて試行錯誤を伴うことが多い。また、内容を構成する要素の境界や意味が未定、不定または隠蔽されている。試行錯誤の特徴は、見いだしたい問題解決の手段とともに、解くべき問題そのものも、試行錯誤の過程で明らかになっていくことである[18]。
われわれは、記述的で定性的な文書の処理には、意味与奪型のアプローチが向いていると考えている。
カイロス時間処理へのアプローチも、記述的で定性的な文書と同様に検討できる。カイロス時間は規範的というよりは記述的であり、定量・コード化は難しく、むしろ定性的である。
カイロス時間で記述されるイベントは、しばしば、境界や意味が未定、不定または隠蔽されている。心の中で、過去を書き換える如きことすら、よく行われる。
であれば、記述的で定性的な文書に対する意味与奪型のアプローチと同様のアプローチが、カイロス時間処理についてありうるのではないか?
われわれは、カイロス時間の処理を、クロノス時間の粒度処理などに還元するのではなく、別のアプローチを模索・試行している。
われわれが対象とするのはこのようなカイロス時間である。人がこのようなカイロス時間を扱うときに有効な、コンピューターによる支援方法を発見し実装することがこの研究の目的である。
では、カイロス時間を処理できるとは、より具体的には何ができればよいのか?。また、それができたときに、カイロス時間を伴うどのような物事の役に立つのであろうか?
これらを明らかにすることを、今回の課題と設定した。
ここでわれわれのとるアプローチは、文書に対する意味与奪型のアプローチと同様であり、次の制約を設ければよいと考えた。
処理の対象である題材としては、芥川龍之介の「藪の中」をとりあげた[20]。「藪の中」は、1922年に発表された短編小説である。若い夫婦が、盗人に騙されて、奥さんが手込めにされ、ダンナが死んだ、というストーリーである。この3者の証言が微妙に食い違い、ダンナの死因が不明で、自殺も含めて誰が殺したのか犯人も不明である。
これを題材として取り上げるのは、発表以降、80年以上にわたって研究されていて、いまだに真相が究明されず、かつ、それにもかかわらず人々の興味を引き続けているからである。クロノス時間へのマッピングが困難であり、にもかかわらず、リアリティをもって人々にアピールし続けているということである。カイロス時間処理の対象として適切であり、かつ、必要性を示すのにふさわしい題材である。
ここまでのところでは、カイロス時間情報のデータ表現は、次の条件を満たす必要があると考えている。
特に、比較対照しやすいこと。人々は時間を、クロノス時間と対応づけて考えるのに馴染んでいる。
記述されたことば、文章をベースとする。
記述的な文書とのアナロジーを考慮して、文面に記述されていない時間情報を安易に導入できないよう、配慮する。
MicroformatsのhCalendarにおける時間記述は、クロノス時間を記述するものである。また、上記の条件を満たしている。
hCalendarにおける"dtstart"というクラス名がクロノス時間を示すものであるならば、別のクラス名を導入することで、自然な形でカイロス時間表現に拡張できるだろう。
「藪の中」では盗人、奥さん、ダンナの3者の証言が食い違っているので、この3者それぞれにカイロス的な《時(とき)》があると考えて、それぞれ「盗人時」、「奥さん時」、「ダンナ時」とする。これらそれぞれに、クラス名を割り当てる。
title属性の値には、各《時》における《時刻》を表す値を設定する。イメージとしては「妻が顔をもたげたとき」といった自然言語の記述でもよいが、個々の時刻を識別するために、各《時》においてはユニークでなければならない。
当面は、STORYWRITER[2]、[10]を時間処理にも使えるように拡張して「STORYWRITER 2」とし、文書をカイロス時間的に読み解くことを試みて、評価してみる。
STORYWRITERでは、文書の読者は文章にマークを設定し、また自由にマーカーを追加することができる。また、マークを手掛かりにして文書の部分を並べ替えることができる。
STORYWRITER 2では、読者がその文書から読み取ったカイロス時刻にマークを付ける。この段階で、カイロス時刻に対応するマーク群というかたちで、《時》が名義尺度として導入されたことになる[19]。
個々のカイロス時刻記述は、すなわち文書中のイベント記述と対応付いているハズである。STORYWRITER 2では、イベント記述全体もマークすることができる。
ここで、イベントと時刻の関係は、イベントマークに含まれる時刻マークがそのイベントの時刻を表す、と定義する。すなわち、イベントマークは時刻マークを完全に包含しなくてはならない。これはSTORYWRITERを拡張することで実現したことによる、STORYWRITER 2の制限である。一般には、時刻記述を含むようにイベント記述をマークしようとしると、マークする範囲が広くなって、イベントそのものではない別の描写を含むようになってしまうことがある。
さらに、STORYWRITERでは、マーカーグループ内でマーカーは順序を持っている。文書中にマーク箇所が現れる順序とは別に、マーカーの順序を設定できる。そこで、《時》が順序尺度として導入できたと言える。なお、「藪の中」の各証言は時系列に述べられている。
また、STORYWRITER 2では、1つのイベントが複数の《時》の時刻を持つことができる。XHTMLではclass属性値として、空白で区切って複数のクラス名を並べることができる。これによって、複数の《時》に属することを表現し、さらに、title属性値にもこのルールを適用することで、それぞれの《時》において別々の《時刻》を持つことができる。title属性の値のどちらが、どちらの《時》の《時刻》値なのか、これだけでは判別できないが、今回の実装では、《時刻》値は文書の範囲でユニークなので、識別できる。このようにして、STORYWRITER 2では、1つのイベントが複数の《時》の時刻を持つことを表現している。
1つのイベントが複数の《時》の時刻を持つということで、いわばイベントを《名寄せ》していくことで、「藪の中」におけるカイロス時間を読み解くことができるのではないか。
ここまでで、STORYWRITER 2は、カイロス時間の要件の一部を満たしているように思える。実際に、「藪の中」におけるカイロス時間を、STORYWRITER 2で読み解いた結果を見てみよう。
STORYWRITER 2を使って、「藪の中」の時刻とイベントの記述をマークしてみると、図1のようになる。グレー地に白文字でマークされた部分がイベント、ラベンダー地に黒字でマークされた部分が時刻を記述した部分である。
検非違使に問われたる媼の物語
武弘は昨日娘と一しょに、若狭へ立ったのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。…
「武弘は昨日娘と一しょに、若狭へ立ったのでございます」部分がイベントを記述している。そのうち「昨日」部分が時刻を記述している。
図1: イベントマークと時刻マーク
1つのイベントが複数の時の時刻を持つ場合、マークの内容をダイアログに表示すると、図2のようになる。「昨日の午少し過ぎ」という時刻記述は、「クロノス時間」の「昨日の午少し過ぎ」時刻と、「盗人の時」の「昨日の午少し過ぎ」時刻としてマークされている。両時刻の、人向けの表記は「昨日の午少し過ぎ」で同じだが、内部的な値は異なる。チェックを入れたり外したりすることで、1つのマークに複数の時や時刻を設定できる。
図2: 多値マーク
STORYWRITER 2では、マーカーのグループを軸として、マークされた部分を表形式にクロス表示することができる。「盗人の時」軸を縦軸にとってクロス表示したのが図3である。
縦軸に上から下に並ぶ見出しセルが、盗人の証言に述べられた各イベントの時刻に対応している。見出しセルの内容は、各時刻に読み手が付けた見出しが表示されている。
対応するデータセル内には、その時刻表現としてマークされた部分が、本文から抜き書きされている。
このマーク結果では、各時刻の見出しと、それに対応する本文中の時刻記述がほとんど同じになっている。
盗人の時 |
|
---|---|
昨日の午少し過ぎ |
|
とうとう女を手に入れたとき |
|
女がわたしに縋りついたとき |
|
女がわたしを燃えるような瞳で見た一瞬間 |
|
じっと女の顔を見た刹那 |
|
男と切り結んで二十三合目 |
|
男が倒れると同時 |
|
図3: 1軸のクロス表示: 時刻記述としてマークされた部分だけを表示
データセルに表示する内容を、時刻記述を含むイベント記述にまで、範囲を広げたのが図4である。ただし、一部の行のみを表示している。
盗人の時 |
|
---|---|
昨日の午少し過ぎ |
わたしは昨日の午少し過ぎ、あの夫婦に出会いました。 |
とうとう女を手に入れたとき |
わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に入れる事は出来たのです。 |
… |
… |
図4: 1軸のクロス表示: イベント記述の範囲まで表示
2軸のクロス表示をすると、データセルに表示される内容は、両方の軸によって絞り込まれる。縦横両軸の時刻に対応する記述だけが表示される。図5は、盗人の時とダンナの時を軸にとっている。この時点で、両者の証言で共通していると見なしたのが、盗人の「女を手に入れる事はできた」と、ダンナの「妻を手ごめにすると」だけなので、クロス表にはこれらしか表示されない。先ほどの図3で、1軸のクロス表に表示されていた他の内容は表示されない。
ダンナの時 |
|||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
盗人の時 |
妻を手ごめにしたあと |
盗人が妻を慰めている間 |
盗人が自分の妻になれと言ったとき |
妻がうっとりと顔を擡げたとき |
妻が盗人と藪の外へ行こうとすると |
盗人がそのことばを聞いた直後 |
… |
昨日の午少し過ぎ |
|||||||
とうとう女を手に入れたとき |
|
||||||
女がわたしに縋りついたとき |
|||||||
女がわたしを燃えるような瞳で見た一瞬間 |
|||||||
じっと女の顔を見た刹那 |
|||||||
男と切り結んで二十三合目 |
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男が倒れると同時 |
図5: 2軸のクロス表示: 両軸の各項目両方に属する記述が表示される
奥さんが手ごめにされてしまったことは、3者の証言で共通していると容易に判断できる。この段階では、盗人の「女を手に入れる事はできた」というイベント記述は、図6のように、3者の《時》の時刻に対応している。
図6: 3つの時に時刻を持つイベント
盗人(多襄丸)とダンナ(死霊)の証言を読み比べると、さらに次の2つの出来事を記述していると思われる部分が、それぞれにある。
それぞれについて、マークしたのが図7である。
多襄丸の白状
(…略)
男の命は取らずとも、――そうです。わたしはその上にも、男を殺すつもりはなかったのです。所が泣き伏した女を後に、藪の外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋りつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、――そうも喘ぎ喘ぎ云うのです。わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。(陰鬱なる興奮)
こんな事を申し上げると、きっとわたしはあなた方より残酷な人間に見えるでしょう。しかしそれはあなた方が、あの女の顔を見ないからです。殊にその一瞬間の、燃えるような瞳を見ないからです。わたしは女と眼を合せた時、たとい神鳴に打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。妻にしたい、――わたしの念頭にあったのは、ただこう云う一事だけです。これはあなた方の思うように、卑しい色欲ではありません。…
(…略)
巫女の口を借りたる死霊の物語
(…略)
盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡げた。おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか? おれは中有に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚に燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、――「ではどこへでもつれて行って下さい。」(長き沈黙)
妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇の中に、いまほどおれも苦しみはしまい。しかし妻は夢のように、盗人に手をとられながら、藪の外へ行こうとすると、たちまち顔色を失ったなり、杉の根のおれを指さした。「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにはいられません。」――妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。「あの人を殺して下さい。」――この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆様におれを吹き落そうとする。(…略)
図7: 2人の証言中の、2つのイベント記述
これらが「共通している」ことを、次のように表現してみる:
一方で、盗人が経験した「女がわたしを燃えるような瞳で見た」というイベントが、「ダンナの時」の「妻がうっとりと顔をもたげたとき」にも起きていると設定したのが図8である。
多襄丸の白状
(…略)
図8: 盗人証言中のイベントを、「ダンナの時」にも位置づける
他方で、ダンナが経験した「妻がうっとりと顔をもたげた」というイベントが、「盗人の時」の「女がわたしを燃えるような瞳で見た」時刻にも起きていると設定したのが図9である。
巫女の口を借りたる死霊の物語
(…略)
図9: ダンナ証言中のイベントを、「盗人の時」にも位置づける
このように相互に相手の時刻にも起きていると設定したとき、クロス表示すると、図10のように表示される。
ダンナの時 |
||||
---|---|---|---|---|
盗人の時 |
妻を手ごめにしたあと |
妻がうっとりと顔を擡げたとき |
妻が盗人と藪の外へ行こうとすると |
(…略) |
昨日の午少し過ぎ |
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とうとう女を手に入れたとき |
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|||
女がわたしに縋りついたとき |
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|||
女がわたしを燃えるような瞳で見た一瞬間 |
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|||
(…略) |
図10: 2軸のクロス表示
セルにイベント記述全体が表示されるようにしたのが、図11である。簡単のために、各《時》から、他の時刻の行・列を省略してある。共通するイベントがあるセルには、それぞれの証言から1つずつ、計2つのイベント記述が表示されている。
ダンナの時 |
||||
---|---|---|---|---|
盗人の時 |
妻を手ごめにしたあと |
妻がうっとりと顔を擡げたとき |
妻が盗人と藪の外へ行こうとすると |
(…略) |
昨日の午少し過ぎ |
||||
とうとう女を手に入れたとき |
わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に入れる事は出来たのです。 盗人は妻を手ごめにすると |
|||
女がわたしに縋りついたとき |
藪の外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋りつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、――そうも喘ぎ喘ぎ云うのです。わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。 妻は夢のように、盗人に手をとられながら、藪の外へ行こうとすると、たちまち顔色を失ったなり、杉の根のおれを指さした。「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにはいられません。」――妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。 |
|||
女がわたしを燃えるような瞳で見た一瞬間 |
殊にその一瞬間の、燃えるような瞳を見ないからです。わたしは女と眼を合せた時、たとい神鳴に打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。 盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡げた。おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか? おれは中有に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚に燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、――「ではどこへでもつれて行って下さい。」 |
|||
(…略) |
図11: 2軸のクロス表示
表の横軸にあたる「盗人の時」は左から右へ、縦軸にあたる「ダンナの時」は上から下に時間順に時刻が並んでいるので、共通するイベントがあれば、表中で右肩下がりに並ぶはずである。これが崩れているとき、双方の証言の間に時間順序の観点で食い違いがあることになる。
STORYWRITER 2は、このような時間順序観点からの食い違いを、右肩下がり傾向の崩れでもって、視覚的に表現できた。
今回の実装では、上記で行ったイベントの名寄せとは、具体的には、1つのイベント記述に異なる複数の時の時刻を割り当てることであった。異なる複数のイベント記述そのものに1つのイベントIDを割り当てるといったものではない。また、異なる複数の時に、同一の時刻を持たせることでもない。
これらの是非について、現時点では十分に検討できていない。
当事者の《時》を各自の主張のロジックと見ると、イベントの反転は、ロジックの食い違いの現れと見ることができよう。
小説「藪の中」に書かれた順番で関係者が証言したのだとしよう。死霊となったダンナが、先に証言した盗人や奥さんの話を、あらかじめ知っていたとしよう。ダンナはSTORYWRITER 2を使って、他の2人の証言と、どの部分で食い違い、どの部分で話を合わせ、結果として自分の主張を構成できるように、自分の証言を作文できたかもしれない。
STORYWRITER 2では、表の各軸の項目を、ドラッグ&ドロップ操作で入れ替えることができる。この操作で、イベントの順序を簡単に入れ替えることができる。
今回は、時刻と、その順序に関する機能を実装した。時間間隔に関しては何も実装されていない。時間を長く感じたり、次のイベントがすぐ直後に起きたように感じたりといったことには触れていない。
これについては今後の課題とする。
ライフログにおける時間をクロノス時間とカイロス時間の2つに分類し、研究対象がカイロス時間であることを示した。また、それぞれの時間処理の隘路とアプローチを示すことで、カイロス時間処理の特徴を示した。「藪の中」を題材にして、STORYWRITER 2でカイロス時間を読み解き、イベントの時間反転というかたちで、主張の食い違いが現れることを示した。
カイロス時間へのわれわれのアプローチは、記述的かつ定性的な文書へのアプローチと同様である。当面は、それら文書処理ツールにカイロス時間的な機能を導入してみる。具体的には、STORYWRITERに導入するのが有効と思える。
表2のとおり、STORYWRITER 2は、前に述べたカイロス時間記述の要件を満たすことができた。
STORYWRITER 2 | |
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クロノス時間情報との親和性 |
○ クロス表示の表の軸がクロノス時間であるときに、表をスケジューラーのような時系列として表示することは可能。ただし未実装。 |
記述ベース |
○ 文章中に記述されたある部分をマークすることで時刻、そして時が見いだされて導入される。 |
また、表3のとおり、カイロス時間処理の要件も、満たすことができた。
STORYWRITER 2 | |
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クロノス時間へのマッピングを前提としない |
○ 盗人、奥さん、ダンナの証言内容を、クロノス時間にマッピングせずに処理できた。 |
カイロス時間軸そのものを外在化して検討・整理の対象にできる |
○ クロス表示の軸として、各人のカイロス時間軸を明示的に表現できた。カイロス時間相互の食い違いは、例えばイベントの順序反転というかたちで、視覚的に表現できた。 ドラッグ&ドロップ操作で時刻を入れ替えることができる。これによって、カイロス時間軸の観点から文章を編集することができる。 |
最後に、今回のテーマには表4のように答えることができよう。
STORYWRITER 2 | |
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何の役に立つのか? |
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どんな機能? |
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