第1章 電子化文書と戦略

1.1 総論: 情報規格におけるビジネス戦略−de jureからde factoへ

 ここ数年,情報関連規格成立の,プロセスの変化が顕著になっている。すなわち,de factoからde jureへの変化である。企業はde facto獲得へ動き,de jure活動は破綻しかけている。しかも,これらの規格では,規格というものの存在やその成立過程がエンドユーザにあらわになっており,エンドユーザからの議論を呼ぶ状況にもなっている。

 本委員会の3年間にわたるヒアリングを踏まえて,ここでde factoとde jureとの違いを端的に述べると,次のようになろう。

de facto
やりたい者が,切実さと野心をもって,投資するもの
de jure
やるべき者が,義務感と責任とをもって,貢献するもの

 このように定義してみると,問題は規格成立に携わるときの姿勢に関わっており,規格の成立が公共の機関によるものかどうかという区別は,本質的ではない。「やりたい者が,切実さと野心をもって,投資する」という関わり方が,機を捕らえた制定の速さ,技術的な現実性,市場を意識した経済的な現実性へとつながり,“事実上の標準”を生んでいると考えられる。

 特に,変化の速いインターネット関連の分野では,ビジネス戦略を前提として規格制定活動へ関与することが,企業にとってますます重要になってきている。もはや,規格とは,その成立を待って従うものではなく,みずからその成立をリードするものとなっている。

 この章では,ビジネス戦略を前提とした,de facto獲得への企業の動きを報告し,この現実を認識する助けとしたい。まず,委員会のヒアリングを踏まえて,de facto獲得のために考慮すべき要素をあげる。続いて,これらの要素がどのように関わるか,ヒアリングの中から事例を紹介する。

1.2 規格普及の要素−de facto獲得のために

1.2.1 規格の公開

 委員会でヒヤリングを行った規格に共通な要素として,規格の内容が公開されていることが見出される。オープンな規格といった要素は,公的な規格と変わることはなく,オープンであること自体がde factoとなる為の要因であるとはいえない。しかし,規格を公開することは,de factoとなる為の要素と考える以下の2点に重要な意味を持つ。

 いくつかのヒヤリングの中で,協力企業の存在は,de factoとなる過程に大きな意味を持っていた。協力企業の役割がde facto獲得の為の大きな要素であることは,昨年度の報告書の中で,規格の策定者,ユーザと並んで“規格を担ぐ”視点が取り上げられていることにも現れている。

 協力企業の役割は,カスタマイズ等のユーザサポートとツール,コンテンツの提供がある。ノーツ等ユーザ毎に異なる環境が求められるものについては,前者の必要性は,言うまでもない。規格のオープン化が重要なのは,後者の場合である。一般的に情報規格を利用する為の環境は多くのツール,コンテンツを必要とする。規格に対するコンセプトを実現する為に必要なものである。こうしたものを限られた企業で全て提供するのは,困難な場合も有り,また閉じた市場では,ユーザの選択肢も乏しいものとなる。そこで,規格を公開し,他企業の協力を求めるのである。つまり,規格を中心とした開かれた市場によって,ツール,コンテンツの提供を行うのだ。この市場は,ユーザに選択肢を提供し,価格を引き下げ,時として規格にコンセプトを提案,新しい市場を開拓する。ヒヤリングの中でも公開の狙いとして,新しい発想を期待しているとの声もあった。

 つまり,協力企業の存在により,規格の価値を高めているのである。ここでの価値とは,ユーザにとっての価値である。ユーザにとって規格自体より,ツールの使いやすさ,コンテンツの豊富さといったものの方が,より重要であることは少なくないのである。

 業界内の共通規格をコンソーシアム等で策定する場合,ここで決められたことがde factoとなる。つまり,この場合コンソーシアム内での主導権を握ることが,de factoを獲得したと言える。

 もちろん,コンソーシアムにおいて決定された規格は,オープンなものであるのだが,ここでの規格のオープン化は,個々の企業で開発されたものを指す。

 MIDIのGM音源成立の過程を例にとって見る。ローランドは規格化したGS音源を,国内のワーキンググループに提案したが,調整は取れなかった。その後,アメリカが提案してきたGM音源が規格として成立する訳であるが,これは,ローランドの提案していたGS音源とほぼ同じ物であった。ローランドが,アメリカのソフト会社に公開した規格を基にGM音源が作られたのだ。結果的にではあるが,ローランドは,自社の規格を業界標準として,成立させたのである。

 アメリカのメーカにすれば,自らの要求を満たす,同様な規格があるならば,わざわざ規格を作る必要は,無いのである。規格自体は利益を生まないから,その分アプリケーション等の開発に注力する方を選んだのであろう。

 コンソーシアム等で自社規格の優位性を主張することは,もちろん重要なことである。しかし,自社規格に対して,より多くの企業の賛同を得ることも決定に際して重要な意味を持つのである。そして,商品の開発,戦略の意思決定の速度が要求される現在,その為の情報は重要であり,関連企業に規格の情報を公開していくことは,その支持を得る為に不可欠の要素であると考えられる。

1.2.2 ライセンス

 情報規格の普及を考える上でもう一つ重要な要素は,ライセンスの扱いである。

 ヒヤリングを行った規格のライセンス形態は,JAVAのソースコードを除いて,フリーであるか,買い取りのものであった。つまり,販売数毎にロイヤリティを取ると言った形態のものは,無いのである。これは,規格の普及の条件として非常に納得のいくものであり,「規格そのものでは,商売はしない」といった姿勢は,ヒヤリングを行った方々に共通したものであった。

 ライセンスに関係し,いくつか見られるものとして,データ再生の為のアプリケーションを無償配布しているものが有る。

 アプリケーションの無償配布ということを情報規格の観点から考えると,その本質は,データの交換性の保証であると言える。

 de factoが重視される理由の一つは,データの交換性である。紙で情報が交換されていたときは,用語,用法的な差異はあるにしろ,データそのものが見えないと言ったことを考慮する必要は無かった。しかし,電子データの場合は,その利用はOS,アプリケーションに依存する。つまり,データを交換しようとした場合,実際にデータを交換する前に相手に利用環境が有るかどうかを確認する必要が有る。ここで,“デファクト”であると言うことは,相手にその利用環境が存在すること,つまり,データの交換性が高いことを意味する。

 一方あるデータを利用するアプリケーションが,無償で容易に入手できる状況である場合,そのデータは,相手の環境に依らず交換が可能であることになる。つまり,データの作成側は,アプリケーションの入手方法を明記することにより,対象の環境を考慮する必要なくデータを作成出来るのである。

 Acrobatは,データ表示アプリケーションのAcrobatReaderを無償で配布し,再配布も許可もしている。このため,Acrobatのデータを配布するサイトで,AdobeのURLへのハイパーリンクを用意する以外に,CD-ROMで,複数のプラットフォーム用のAcrobatReaderを同包して配布することも出来る。データを配布された側は,インターネットやCDからアプリケーションをインストールすることにより,Acrobatのデータを参照することが出来るのである。

 Acrobatの場合,その対象とした市場は,インターネット,CD-ROMでの配布と不特定多数を対象としたものであった。データの参照が保証されていることは,Acrobatが普及しているかどうかを問題とさせなかったのである。つまり,de factoの持つ利点の一つであるデータの交換性をAcrobatReaderの無償配布により,実現させてしまったのだ。アプリケーションの無償配布は,「只だから使う」といった以上に普及の過程において大きな意味を持っているのである。

1.2.3 規格と市場

 次に,規格の普及と市場についてみる。規格と市場の関わり方としては,次の2通りが見られる。

 前者は,極当たり前のことであり,規格のコンセプトはすでに既定のものである。そのコンセプトに添った優れた規格が普及する。レイアウトされた文書をやり取りしたい,と言う要求に応えたAcrobatは,これに当たる。

 後者では,ローランドが,MIDIの普及の過程でDTMと言う新しいコンセプトを提案し,演奏データ,音源,シーケンスソフトといった市場を生み出したことが挙げられる。

 後者の場合,規格と共にコンセプトも普及させる必要があり,規格のコンセプト自体が,規格の普及の是非を決める。これは,JAVAはPDAからネットワークへ,Photo CDはコンシューマ用からコマーシャル用へと規格のコンセプトを変えたことにより普及している事からも分かる。

 コンセプトが受け入れられるかどうかは,社会インフラ,文化的要因等を念頭にマーケティングを行う必要がある。文化的要因については,本報告書の2章も参考となるであろう。

1.3 事例紹介

1.3.1 de facto戦略

 Adobe社のPDFに関するde facto standardの考え方は,次の言葉に代表される。

『PDFをde facto standardにしてしまおう。業界のスタンダードにしてしまって,そこからいろいろな方がいろいろな形で,ハードウェアやソフトウェアを開発して,我々が今思いつかないようなものを含めていろいろ出て来るのではないか。そこで何かビジネスケースを作って行こう,というのが今の基本的な考え方です。』 (Acrobatヒアリングより)

 現在,PDFのビューアはフリーで配布されており,それ自身が利益を生み出すものではない。しかし,それは利益を無視した戦略ではなく,PDFの普及により生み出される将来の市場を確信し普及の努力を行っているのである。

1.3.2 de facto standardの成立過程

 現在,de fact standardと位置づけられている製品も,その初期段階ではビジネスとはまったく関係なく,個人が1ユーザとして欲しい物を作ったところから始まっているケースがある。製品本来の技術的な着想があって,さらにビジネス戦略の成功など好条件の結果,de fact standardとしての地位を獲得している。Notesはその良い例である。この個人的着想からde fact standardへ向かう過程を,Notesの生まれた環境と普及の過程を軸に,他の事例も参照しながら紹介する。

 Notesの場合は大学の学生の着想から始まっている。

『(Notesは)大学での研究レベルのプロジェクトではなく,個人的なものでした。(中略)マルチメディア端末というものが学生の目には面白く映った。その上で,メモをやり取りするとか,ディスカッションするといった遊びを作って,それが非常に面白かったので好評を呼んで,バージョンアップを重ねて行った。それがノーツの原型です。』 (Notesヒアリングより)

 しかし,いくら個人レベルで良いものを作っても,それがビジネスとなりde facto standardとしての地位を得るまでに普及するには,様々なサポートが必要である。まず基本技術の価値を認め,製品の開発を支援する者の存在が必要である。シェアウェアなどでは,初期バージョンの段階でネットワークに公開しユーザからフィードバックを受けると同時に,資金の提供も受けている。

 Notesの場合は,ロータスがその役割を果たしている。

『そこで,ノーツというアイデアが有って商品化したい,ということで出資者を探し始めました。当時住んでいたボストンの近郊で探していたら,ロータスという会社に出会い,出資してくれる。というわけで,ロータスとアイリスアソシエーツの関係が始まります。(中略)非常に面白い関係で,プロジェクトに対して研究費は投資します,出来上がったものはロータスがエクスクルーシブに売ります,が人は送り込まない,という約束をレイオジーが取り付けて,ついこの間までその約束でやって来ました。』 (Notesヒアリングより)

 さらに開発後の普及過程では,その製品を必要とするユーザの存在が不可欠である。開発者が提供する技術的な解決が,ユーザのニーズと整合性を持ったとき普及の原動力となる。

 Notesの場合はコンサルタント会社がユーザとして非常に大きな役割を果たしている。

『ノーツがビジネスとして火が点くきっかけとなったのは,プライスウォーターハウスを始めアンダーセンコンサルティングとかマッキンゼーなどのコンサルタントの目に留まったことだと思います。(中略)ノーツのような道具があればコンピュータを使って知識・経験の共有が出来るのではないか,ということにプライスウォーターハウスは目を付けたわけです。つまり,今まで紙に残していたログや作業記録やアイデアなどを全部ノーツの中に入れてしまう。それを皆でシェアすることによって,知識と経験を他の人間にトランスファする。それによって,もっと大きな富を得よう,ということで使い始めたことがきっかけです。』 (Notesヒアリングより)

 また,ユーザだけでなく普及をさせる側にも,開発者と異なった視点が必要になってくる。これについてはPhoto CDのヒアリングで言及されている。

『開発者,ロジックフォーマットを決めた者達は強烈な個性の持ち主たちで,それをもってこのフォーマットを創り上げてきたのです。(中略)ただし,それをマーケティング的にリードした人,ビジネスに変えて行ったのは全く違う人間です。彼等は開発者たちとは異なりマーケット,市場の動き,文化の変化といったことを考える人間達で,現実には彼等もまた彼等の個性でマーケティングをリードしてきて今に至ったわけです。』 (Photo CDヒアリングより)

 普及においてはその時代背景,インフラストラクチャの影響も無視できず,そのためにうまくいかなかったケースもある。これは,規格の技術的背景とは異なるものであり,Javaのように技術そのものは無駄にならずに別の形で普及する例もある。

『元々はJavaはPDAのマーケットに参入しようとして作られたプロダクトです。以前はOAKという言語で,5年くらい前の話で,それは失敗しました。』

『PDAは考え方が新し過ぎたのです。今でも追いついていないというものです。要は市場に受け容れられないものを作った,ないしは市場が成熟していないのに新しいものを作っても成功しないわけです。ですから,当時は,テクノロジは正しかったのですが,マーケティングが間違っていました。』 (Javaヒアリングより)

 以上のような過程を経て製品が普及した後では,競合他社やサポート企業との関係によってde fact standard化が進む。この段階では,製品開発企業は標準化を意識した戦略をとる必要が出てくる。そこには,Internet関連技術など既存の標準との互換性や,他社企業への仕様,APIの公開などが求められる。

 Notesの場合は,インタネットスタンダードの採用や,APIの公開などを行っている。

『インターネットのスタンダードプロトコルとインターネットのスタンダードフォーマットでやり取り出来るようにするかということを,今ロータスは一所懸命力を入れてやっています。(中略)ノーツのサーバのクライアントとして,WebのブラウザだとかPOP3のメールクライアントを強く意識した製品戦略を今ロータスはとっています。』

『APIにしろパッケージにしろ,ロータスはプラットフォームの提供はしていますが,アプリケーションは外に負うところが非常に多いです。そこで商売をしていただくことで,仲間を増やしているところはあります。』 (Notesヒアリングより)

1.3.3 規格の応用範囲およびユーザ層の拡大

 規格は技術主導で作成されることが多いが,規格の技術そのものが変化しなくても,応用範囲の拡大によって規格の価値が高くなっていくことにも注目したい。新しいユーザ層を開拓することによって規格のライフサイクルを長くすることも可能である。MIDIはその良い例である。

『MIDIは1983年から順調に適用範囲は広がっています。要するにユーザは凄く増えていると思います。それで,一つは,YMOなどの電子楽器を使ったプロミュージシャンの活躍というシーンがあります。それから,ミュージ郎などのDTMの動きがあります。最近では,WindowsがMIDIを採用したのが非常に大きいと思います。またDTMという特化したものではないが,一般的なパーソナルコンピュータの中でMIDIが使われるようになって来た,というステージがあります。』 (MIDIヒアリングより)

 新しいユーザ層の獲得には,ユーザの自発的な動きも重要であるが,同時に開発者側が新しい応用を目指した戦略をとることが重要である。

『SMFに置き換えて行くことによって,データを流通させようということを最初から考えていました。(中略)そういうビジネスを立ち上げて,データを買ってDTMをするというマーケットを作りたかった。』

『プロフェッショナルユースでは自ずと限界がある,プロフェッショナルユースの方でコアテクノロジ,良いものを拵える,それを別の分野に応用して行く,セイム エンジン ディファレンシャル シャーシ,ということでやっています。』

『通信カラオケと言われるものはSMFやGSなどのインフラが揃って来て始めて成り立った産業です。曲データを作成するのには非常に人手が掛かります。そこにデータを作るためのシステムが要るわけです。カスタマイズされた音源を用意して曲データをそれ用に作るというのは,現実問題としては非常に難しいですから,殆どの通信カラオケのメーカは,市販されている音源と同じものを使ってデータを作っています。』 (MIDIヒアリングより)

1.3.4 規格におけるオープンな姿勢

 規格においてオープンであるということは様々な意味を含んでいる。ただ単にオープンにすればよいということではなく,そこに示されている戦略に注目したい。

 そのオープン化に関する戦略は,Javaのヒアリングに見ることができる。

『一つは,ボリュームが標準を創る,ということです。この考えが戦略の底辺にあります。もう一つは,オープンシステムについての考えです。他社は,UNIXを使っていることや他機種との通信ができることなどを主張しましたが,我々は,テクノロジを公開していることまたはライセンス可能であることや既存の業界標準に準拠していることなどが,オープンシステムの条件であると考えました。基本的にはJavaも同じ考え方がベースになっています。』 (Javaのヒアリングより)

1.3.5 ユーザのメリットと開発者の意図の整合性

 規格の成功には,ユーザのメリットと開発者の意図の整合性が重要である。PDFにおけるプラットフォームに依存しない文書交換への取り組みが,その良い例がである。Adobe社では,コンピュータ画面および印刷物の両方においてオリジナルの文書のレイアウト,印刷品質を再現することを目的としてPDFを開発した。PDFは,同社の得意とするPostScriptの技術を背景として,Multiple Master Fontによるフォントの置き換え,画像イメージの圧縮などの技術を使って開発されている。これらの技術は,これまで実現されていなかった“プラットフォーム,OS,アプリケーションソフトウェアというようなものは一切気にしない,フォントも一切気にせずに,コンピュータ間でドキュメントを交換したい”というユーザの要求に対する解決策となっている。PDFの場合は,ユーザのメリットをまず開発者が認識し,規格の普及に重要なマーケティングにおいてもユーザのメリットが宣伝されている。PDFが普及すると,インフラストラクチャとなってユーザのメリットがより大きくなっている。PDFがこのように成功した理由としては,過去の製品開発から得られた文書の利用形態に対する十分な認識や,従来の顧客や社内のユーザからのフィードバックが開発に反映されていることが考えられる。

 ユーザのメリットを意識した戦略は,Photo CDにも見ることができる。

『コンピュータで良い絵が見ることができるかという問いに対する解はPhoto CDが世に出るまでなかった言えるでしょう。Photo CDのサンプルを前述の各コンピュータに添付されたり,Photo CDのビューアを開発されて各社の製品中に出荷時から組み込まれるメーカーさんがあり私共でも積極的にマーケティング活動に協力しお互いの製品認知度を高めていくことができました。』 (Photo CDのヒアリングより)

(C)1998 社団法人 日本電子工業振興協会