第3章 電子化文書を使う人について

3.1 現代社会に生きる人々と規格

 現代社会に住む私たちは,日常生活の中で実にさまざまな規格に取り巻かれている。数本のネジ回しがあればほとんどあらゆるネジを締めることができるのも,A社のオーディオカセットをB社のテープレコーダーで録音・再生して何ら問題が生じないのも,それらの製品のかたちを縛る規格が存在するからだ。現代社会において,規格は私たちの生活の一部である。

 この事実に加えて重要なのは,これらの規格は普段,その存在が製品利用者にほとんどまったくと言っていいほど意識されていないということだろう。製品利用者が規格のもつ意味をあらためて認識するようなことがあるとすれば,海外旅行で日本から持ち込んだ電化製品が使えなかったり(そもそもコンセントの形からして違う!),ヨーロッパで録画された(外見は日本で売っているのとまったく同じ)ビデオテープを日本のビデオデッキで見ようとしても伝送方式の違いのために再生できなかったりといった,程度の差はあれ「非日常的な」場面である。つまり,規格の存在は,製品を作る側にとっては極めて重要かつ現実的な制約として機能するが,できあがった製品を使うだけの利用者にとってはまったく自明な「事実」なのだ。だからその規格のあり方について,製品の「普通の利用者」が口をはさむこと,はさみたいと思うことは,これまでほとんどなかった。

 ところが近年,その「普通の利用者」たちが規格の存在を意識する機会が増えてきている。その背景となる事態として,ここでは以下のふたつを指摘しておきたい。

(1)デファクトスタンダードをめぐる争いの顕在化(本報告書1.1も参照)

 新たな機械が確立された製品として成熟するまでの過程で,複数の規格が並存し,競合するような事態が一般利用者の目に触れる機会が増えてきている。ビデオデッキにおけるVHS方式とβ方式の併存とVHS方式の勝ち残りは記憶に新しいところだし,ごく最近では移動体通信やディジタル・ビデオ・ディスクに代表されるバーサタイル・ディスクの規格をめぐる対立も各種マスコミを賑わせた。

 この傾向は,ソフトウェアの分野において特に顕著である。というのも,実際に普及したソフトウェアが採用している様々な仕様が,国家レベル/国際レベルの標準化機構による認定を受けないまま,事実上の規格(いわゆるデファクトスタンダード)として他社製品の仕様に強い影響をあたえることになり,激しいシェア争いに結びついて人々の耳目をひきやすいからだ。また,生き残り合戦の決着が比較的短期間でつき,その結果が「自分の使い慣れたソフトを周囲の誰も使っていない」という形で身に沁みて実感されるため,一般利用者はいやでもメーカー間のデファクトスタンダードをめぐる争いに関心をもたざるを得ない状況に置かれているとも言える。

(2)「文化」と「技術」との境界の曖昧化

 製品の「普通の利用者」たちが規格の存在を意識する機会が増えたことのもうひとつの背景として,パソコン(あるいはワープロ専用機)の登場にともなう,「機械/道具」と「文化」との関係の再編についても考えてみる必要があるだろう。パソコンは確かに機械であり,道具であるが,私たちがこれまで慣れ親しんできた機械/道具のイメージでは捉えきれない側面をもっている。なぜなら,パソコンは何よりも「表現のための機械/道具」であり,「思考のための機械/道具」であるからだ。機械/道具の形式がそれを使う者の思考や表現のあり方に介入するという経験をパソコンほど実感させてくれるものは,これまでなかった。そして,思考や表現という行為が文化と呼ばれる現象と密接に結びついている以上,私たちは,機械や道具をめぐる規格のあり方と,その機械や道具が用いられている文化のあり方とを切り離しては考えられない状況に投げ込まれつつあるのである。

 いわゆる文字コードをめぐる問題は,その象徴だと言える。電子化文書の世界では,どの文字にどのコードを割り当てるかを決定する規格が,流通可能・利用可能 ・記録可能な文字の範囲を実質的に制限してしまう。技術が文字に関わる文化のあり 方に極めて直接的な影響をあたえるのである。もはや,文字文化のことを真剣に考えようとするのであれば,電子化文書の利用者は否が応でも文字コードという規格の問題,技術の問題に関心をもたざるを得ない。

 従来,「技術」は普遍的であり,個別性や特殊性によって特徴づけられる「文化」とはむしろ相反するものであると考えられる傾向が強かった。技術に関心をもつことと文化に関心をもつことは独立であると見なされたし,往々にして,一方に詳しい人は他方に疎いという印象がもたれ,また事実そうであることが少なくなかった。 しかし文字コードについて言えば,まともな規格を作るためには文化の問題と技術の問題の双方に均衡のとれた目配りをせざるをえない。このような「未曾有の事態」に直面して現在,規格を作る側にも,その規格にしたがって製品を作る側にも,そしてできあがった製品を利用する側にも,少なからぬ戸惑いや混乱が生じているように見える。また一部には,文化と技術との境界の再編によって新たに生じつつあるさまざまな問題の分析を欠いたまま,文字コードの問題を「文化に対する規格=技術の越権行為」と一方的に断罪する風潮も見られる。

3.2 電子化文書によるコミュニケーションと,それを支える文化

 ここで話を本報告書の主題である「電子化文書」をめぐる規格の問題に向けるなら,電子化文書の利用者にとって何よりも重要なのは,文字コードの問題それ自体というよりも,それに代表される諸々の問題が「コミュニケーション」に関連して生じているという事実を認識することである。もしも電子化文書が一切「交換」されないのであれば,すなわち自分が作った電子化文書を自分だけが利用するのであれば,電子化文書の規格をめぐる問題はそれほど複雑にならないし,議論を引き起こしもしないだろう。本当に深刻な問題は,電子化文書を作った人がそれを他人に伝達し,共有しようと思うとき,言い換えれば電子化文書を通じてコミュニケーションをおこなおうと考えるときに生ずるのである。電子化文書の規格をめぐる問題はコミュニケーションをめぐる問題だといっても過言ではない(本報告書1.2.2における「データの交換性の保証」に関する議論および2.1も参照)。

 コンピュータの普及にともない大量に生み出されつつある,また今後も生み出されるであろう電子化文書をどのように保存・蓄積し,伝達,共有するかは緊急かつ重要な問題である。本報告書2.3でも取り上げられているように,アメリカにはSGMLという「規格」を利用し,文書の論理構造(=文書を構成する章や節,セクションといった文章群の間の関係)を明示化することでその共有度=コミュニケーション可能性を高め,ひいては電子化文書の再利用と高付加価値化を進めようという動きがある。この流れに追随し,日本でも官庁主導のもと,一部の企業内で同様の試みが始まっている。

 しかし,ここで技術と文化の関係をめぐるもう一つの問題が浮上してくる。SGMLという規格=技術さえ導入すれば,それで文書の共有度/再利用度の高い文化が生まれるという発想は,あまりにも「技術のあり方が文化のあり方を決定する」式の,いわゆる「技術決定論」に陥ってはいないだろうか。先に「現代社会においては技術と文化の境界が曖昧化している」と述べたが,これを角度を変えて表現するなら,「一見純粋な技術的問題に思えても,そこには常に文化的要素が介在している」ということである。技術決定論的な見方をしている限り,この「技術と文化との相互媒介過程」は決して把握することができない。

 SGMLの背後にある発想,「文書にはきちんとした論理構造があり,それは原理的に明示化でき,また明示化すべきである。そうすることで円滑なコミュニケーションが可能になるはずだ」という考え方は,実は極めてアメリカ的であると言える。この前提が説得力をもつのは,このような前提のもとに物事を考え,文書を作成し,他人とコミュニケーションするように訓練・指導する,長年の学校教育の成果があればこそである。さらにその背景には,「知識とは何か,そしてどうあるべきか。ことばとは,そして論理とは何か」といった問いをめぐる西欧的思索の蓄積がある。それらはいずれもすぐれて文化的な問題だ。これらの文化的背景と現在の日本におけるそれとの共通点や差異についての分析を抜きに,単に技術論だけを導入しても,思ったような成果が得られるかは非常に疑わしい。電子化文書をめぐる問題は,このような形でも,私たちがこれまで自明視するあまり対象化して考察を加えてこなかった「文化」や「コミュニケーション」の問題を個人に,そして社会全体につきつけていることを忘れてはならないだろう。

3.3 「文化」を顕在化させる契機としての電子化文書

 これまでの私たちにとって,「文化」という曖昧な現象についてことさら反省することはそれほど必要でなかったのかもしれない。あるいは「文化」とは,あらためて分析を加える必要もないほど自明なものだったのかもしれない。自分たちが日常的におこなっているのはどのようなことなのか,その原理や仕組みについて振り返ってみたり分析を加えたりしなくても,「自分たちは自分たちのやり方でやっている」という「事実」や「実態」があればよかったのだ。しかしながら,文化と技術との相互浸透がこれまでにないスピードで進行しつつある現在,そのような「何となく」というやり方は急速に立ち行かなくなりつつある。なぜなら,規格や技術は「何となく」という曖昧さをいささかも許さないからである。あるいは,「何となく」という曖昧さを保持し続けたいのであれば,その「何となく」を技術的に処理可能な形で明確に定義するという逆説的試みが要求されるからである。

 文化が顕在化し,問題とされるのは,異なる文化同士がぶつかり合い,それらの間のコミュニケーションが切実に求められる場合である。このような観点から眺めたときに気づかれるのは,電子化文書というものが,機械と機械,機械と人間,人間と人間,人間と文化,文化と文化といった多層的コミュニケーションの生じる「場」になっているという事実である。しかし,その「場」で生起する「必ずしも前提を共有しない,異質な人同士でのコミュニケーション」について,私たちはこれまであまり意識せず,したがって自覚的に多くを考えてこなかったのではなかったろうか。

3.4 「異文化交流の場」としての電子化文書

 佐伯胖氏はかつて文化について,つぎのような定義をおこなった。

《文化とは,特定の価値観と特定の文化的リソース(道具,環境,知識,言語など)を共有し,独自の意味空間を生み出している集団(コミュニティ)である。その場合,その集団の成員はそのコミュニティの文化的実践活動への参加と,他の成員との「仲間意識」を通して,自己のアイデンティティを形成するべく「学習」していくものとする。ここで「文化的実践活動」というのは,その文化の価値の伝承,吟味,創造,さらには,異文化との交流を通しての,その文化を含むより大きな文化の中でのアイデンティティ(「文化のアイデンティティ」)を作り出すべく,文化の成員同士の協同的,協調的な活動を意味している》

 佐伯氏は文化をこのように定義した上で,「製品開発の技術者文化」,「工業デザイナーの文化」,「商業文化」などの『メーカー側の文化』と「オフィス文化」,「家電ユーザ文化」,「専門研究者文化」,「日常生活者文化」,「遊び人文化」などの『ユーザ側の文化』とを区別し,これらの多様な文化同士が本当の意味でぶつかり合い,相互に浸透し合い,真の異文化との出会いを経験していないことが《インタフェースがちっとも良くならない》理由だ,と論じている(佐伯胖「ヒューマン・インタフェースは異文化交流の場である」,日本認知科学会編『認知科学の発展 第5巻』,講談社サイエンティフィク,1992年)。

 このような佐伯氏の議論は,電子化文書と規格をめぐる問題についても数多くの示唆をあたえてくれる。電子化文書に関する規格を作る者たち,規格にしたがって製品を作る者たち,できあがった製品を利用する者たちのいずれにとっても必要とされているのは,電子化文書を佐伯氏が言うような意味で「異文化交流の場」と見なすことである。その上で求められるのは,三者がそれぞれの立場をぶつけ合う中で,電子化文書という新たな文化がどのような可能性と限界をもっているのかを分析し,この新しい文化をこれまで受け継がれてきた文化と接合していくための理念と展望を論じ,古い文化と新しい文化を最良の形で接合するための具体的方法論を構想することであろう。

 言うことは易しく,行うことは難しい。今のところ,上に述べたような「異文化交流」が実現されるような土壌はほとんど存在していないというのが実状だし,そのような土壌を整えるには少なからぬ努力と時間を要するだろう。だが,以下のような点から現状を変えていくことはできるはずだ。

  1. 規格を作る側は,「自分たちは,異なる前提や利害がぶつかり合う場での調整作業をおこなっているのだ」と明確に意識し,行動すべきである。「異なる前提や利害のぶつかり合い」には,「規格を使って製品を作る側」と「できた製品を利用する側」の対立,「ラテンアルファベット圏の論理」と「漢字圏の論理」の対立,「情報処理の能率」と「あつかえる情報の網羅性」の対立,「現象面での解決」と「その背後にある原理面での解決」の対立など,さまざまなレベルのものが考えられる。「異なる前提や利害」の間では,すべての者が完全に満足するということはあり得ない。目指すべきは,より多くの者が,満足はしないまでも納得はするだけの説得力と説明力をもった規格であろう。そのような規格を作るためには,対立し合う個別の前提・利害をしっかり読み取り,それらの間で調整をおこなうために意見収集の回路と交渉の場を設け,最終的には自らの理念と信念に基づいた断固たる決断力を発揮することが期待されよう。
  2. 規格にしたがって製品を作る側は,自分たちの作る製品が文化の問題と密接に関わっており,製品利用者に大きな影響をあたえているということを明確に意識し,行動すべきである。売れればよいという論理を優先し,「どっちみち利用者は分かっていないのだから」,「外見や付属機能の数しか見ていないのだから」という発想で利用者の声にしっかり耳を傾けず,利用者にとっての真の使いやすさを考えないとすれば,佐伯氏が定義する意味での「真の利用者の文化」を明らかに損なうことになる。さらに,規格にしたがって製品を作る側は,規格を作る側と製品を利用する側の間に立っている以上,両者の立場をよく理解しつつ,規格を作る側の論理を製品を利用する側に説明し,製品を利用する側の論理を規格を作る側に説明する役割を果たすことが期待される。
  3. できあがった製品を利用する側に求められることも多い。まず何よりも,普通の製品利用者がすでにある製品の姿を疑わず,したがって「あるべき製品の姿」,「自分にとって使いやすい製品の姿」についての主張をおこなわず,ひたすらメーカーがあたえてくれるのを待っているような「利用者の文化」を変えていく必要があるだろう。そのためには,技術の問題と文化の問題の双方に関心をもつ「普通の製品利用者」層の厚みを増していくことが不可欠である。これは一見難しい要求のように思われるかもしれないが,実際に利用者がすべきことは,すでにある製品を自らの具体的な作業の文脈,仕事の文脈の中で利用し,そこで発生する各種の不便や不都合,素朴な違和感などを(メーカーを含めた)周囲の人間に表明し合うことだけで十分だ。それに対して製品を作る側には,それら「普通の人の意見」を吸い上げ,製品の改良に結びつけていくための回路と感性をいかに鍛え上げておくか,その力量が問われることになろう。

 もちろん,「普通の人の意見」の中には製品を作る側から見て的外れであり,とても受け入れることのできないものも少なくないだろう。また,すでにある製品の姿を疑ってみないことの裏返しとして,利用者が製品に対して常に「ミスのないこと」を強く期待する雰囲気が存在するために,製品を作る側が利用者の意見を(少なくとも表面上は)素直に受け入れにくい状況を作り出しているようにも思われる。だが,その結果として利用者の間に「せっかく意見を述べても作る側は聞き入れてくれない」といった憤りや無力感が拡がってしまっては,「製品を作る側」と「製品を利用する側」の関係は悪くなる一方である。このような悪循環を引き起こさないためにも,「製品を作る側」と「製品を利用する側」はお互いが異なる前提に立っており,しばしば相反する利害関心をもっていることを自覚した上で,必ずしも両立しない両者の言い分を説明しあい,すり合わせ,双方がより満足・納得できる解決を模索しようという態度を確立し,保持し続けることが重要ではないだろうか。

 たとえば文字コードという規格をめぐる問題を,企業のヘゲモニー争いや文化侵略,産官による文化への越権行為という図式でとらえることは,たとえ事態のひとつの側面に光を当ててくれるにしても,作る側と利用する側の双方向的「異文化コミュニケーションの場」としてこの問題をとらえる可能性を閉ざしてしまうおそれがある。なぜなら,そのような図式の根底には技術から切り離された本来的な文化というものを想定し,それに技術を従わせようという発想があるからだ。問題をこのような図式で考える限り,「文化」を担う利用者と「技術」を担う作り手との間に生産的な議論が生じる余地はほとんどない。

 それに対し,私たちがすでに「文化」と「技術」を分離できないような状況に生きていることを認め,「その前に技術がひれ伏すべき本来の文化」というどこにもない理想郷=ユートピアを夢見るのではなく,現実の複雑に入り組んだ文化と技術の関係性を見据えながら「あるべき文化」を構想しようとするならば,製品の利用者と製品の作り手との間の討論や議論が自然とおこなわれるだろうし,またおこなわれるべきである。

 コンピュータ業界やソフトウェア業界など,電子化文書を支える巨大産業の論理の前では,利用者ひとりひとりはまったく無力だ。しかしニヒリズムに陥らず,自らがその中に投げ込まれている文化の問題として規格や技術をめぐる議論に関わっていくこと,そして他の利用者の意見を聞き,自分の意見を表明すること,またその過程を通じて新たな個人的・文化的アイデンティティを確立すること。好むと好まざるとにかかわらず規格と関わって生きざるを得ない私たち製品の利用者に求められているのは,それを「異文化」との交流の場と見なし,「自らの文化」を確立するための契機として利用するようなしたたかさなのかもしれない。


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