第5章 ロータスノーツ

5.1 はじめに

 本章では,ロータス株式会社調査企画部長である樋口氏によるノーツに関するヒヤリング内容を元に,第1章での提案に従い,現在までにノーツに関わってきた人々を「作る人」「かつぐ人」「使う人」の視点でまとめることにする。

 ノーツは世界中で利用されているグループウェアであり,現在ではネットワークコミュニケーションにおける代表的な製品となっている。その開発の歴史は長く,約20年の歳月を経ている。したがって,今日に至るまでには,様々な役割を持った多くの人々が登場し,またその役割を担う人々は時代と共に変遷している。それら登場人物をノーツの歴史を紹介しながら,見ていくことにする。

 まず,前半で樋口氏の話を元に,ノーツの誕生からグループウェアとしての確固たる地位を築くまでの歴史的経緯と近年の動向を紹介し,後半で前半部分で述べた内容に登場する人々を上述の視点で考察する。

5.2 ノーツの歴史

5.2.1 ノーツの誕生

 1970年代の半ば,イリノイ州にあるイリノイ大学にはCAE(Computer Aided Education)を研究するプロジェクトがあり,そのプロジェクトではPlatoというコンピュータシステムが使われていた。このシステムは,メインフレームと当時としてはちょっと変わった端末から構成されていた。その端末とは,今風に言うとマルチメディア端末であり,コンピュータコントロールによりテープレコーダから音を出し,タッチパネルを指でポインティングする,といったものであった。

 このコンピュータシステムに興味を持った学生達がいた。当時のコンピュータはパンチカードをバッチ処理するということが一般的であったため,マルチメディア端末というものが彼等の目には面白く映ったのである。彼等は,そのコンピュータ上に画面一枚分くらいのメッセージ,つまりノートが残せ,それに対してコメントを付けて行くことが出来る,初期のネットニュースに近いようなシステムを作り上げた。これが,ノーツの原型である。

 当時の学生には,コンピュータ上でメモをやり取りするとかディスカッションするといったことが非常に面白かったため,その後もバージョンアップを重ねて行ったが,最初は,本当に遊び道具としてのソフトであった。

5.2.2 遊び道具からビジネスソフトへ

 ノーツを作った4人の学生達は,卒業しそれぞれ別々の会社に入るが,学生時代に作ったノーツが忘れられなかった4人の内の1人であるRayOzzieは,ノーツをミニコンではなく,PC上で動かしたい思い,1人でミニコンからPCへの移植を開始した。その頃のPCは,CPUは8088でクロックは4.77MHzという非常に非力なコンピュータであったが,何とか移植に成功したRayOzziehaは,他の3人を誘い,アイリスアソシエーツという会社を設立した。

 次に彼等がしたことは,ノーツを商品化するための出資者探しであった。そこで,たまたま近所にあったIBM PCの上にVisiCalcの発展形のような表計算ソフト(Lotsu1-2-3)を乗せて大ヒットしているロータスディベロップメントという会社に出資を求めた。

 それは,ロータスとアイリスアソシエーツの関係の始まりと同時に学生達の遊び道具からビジネスソフトへの出発点となった。

5.2.3 ノーツ普及のきっかけ

 ノーツは元々画面1枚分位のメモやノートでディスカッションをするものと電子メールが中心的な機能であった。別の言い方をすると情報や知識をコンピュータネットワークに参加している人間でシェアし,またそれらをやり取りするツールであった。この機能がプライスウォーターハウスを始めとするアンダーセンコンサルティングやマッキンゼーなどの当時のコンサルタント会社の目に留まり,アメリカで知名度を上げるきっかけとなったのである。

 その普及過程には,二つの方向がある。まず一つは,コンサルタント会社自身が抱えていた問題解決にノーツを利用したことである。

 コンサルタントの人達の価値の元は知識であり,一人一人のコンサルタントが持っている知識と経験がクライアントにトランスファされ,それによって報酬を受けるというのがコンサルタントの仕事である。したがって,コンサルタントの仕事は個人のスキルに負うところが大きくなる。このことは,彼等にとっては解決しなければならない大きな問題点であった。

 そこで,ノーツのような道具があればコンピュータを使って知識や経験の共有が出来るのではないか,ということにコンサルタント会社は目を付けたわけである。つまり,今まで紙に残していた作業記録やアイデアなどを全部ノーツの中に入れ,それを皆でシェアすることによって,知識と経験を他の人にトランスファする。そしてそれによって,さらに大きな利益を得よう,ということで使い始めたのである。

 もう一つの方向は,当時不景気に喘いでいた大企業からの経営状態を何とか改善したいという依頼に対し,コンサルタントとしてノーツを選択したことである。

 当時不景気の一番の理由は日本に対する貿易赤字であり,彼等コンサルタントは,生産性向上のために何とか日本のやり方を真似出来ないかと考えていたのである。面白いことに,彼等は,我々日本人が反省点の一つとして捉えている会議の多さに目を付けた。会議を重ねることでメンバの中で知識と経験を共有し,共有したことでそこから先の共同作業が楽になり,非常に効率良く共同作業が出来る。つまり彼等は,日本人の共同作業の原点は会議による知識の共有である,という仮説をたてたわけである。

 知識の共有がメリットであるならば,その手段は会議である必要は無く,その知識が自動的に共有される仕組を作れば,結果として同じである,と考えた彼等はノーツをその道具として採用するよう企業に提案したのである。

 コンサルタント自身が抱えていた問題解決のツールとして,またコンサルタントとしての業務遂行のためのツールとして,ノーツが提供する思想(機能)が受け入れられたことが,グループウェアとして世界に普及するきっかけとなった。

5.2.4 変えずに変える

 以上,ノーツの誕生からグループウェアとしての地位を築くまでの歴史的経緯を簡単に紹介したが,ここで,樋口氏がヒヤリングにおいて,ノーツが世の中に受け入れられた要因の一つとして述べていたことに触れておく。

 コンサルタントのニーズとノーツのシーズがうまく噛み合ったことが,現在の地位を築くきっかけとなったことは,前節で述べた通りであるが,そこにはツールとしての重要な要素が含まれていた。それは,導入に際し,伝統的な仕事のスタイルを崩さず,ユーザに抵抗なく受け入れられることである。

 一人一人の仕事のやり方は変えないが,全体で見ると業務スタイルは変わっている。つまり,一人一人がやっている仕事内容は変わっていないが,全体で見ると仕事のフローやスピードや情報の流れは速くなったり,組織間の壁はバーチャルには無くなっている。これは,ノーツの特徴的な部分であり,スタンダードなツールとして確立するには重要なことであると樋口氏は述べている。

5.3 近年の動向

5.3.1 プラットフォームとしてのノーツ

 ノーツは,基本的には効率良く仕事を進めるためのビジネスツールであるが,同時に個々のユーザの様々な要求(業務形態)に応えるためのアプリケーションプラットフォームでもある。つまり,ノーツが提供するAPIに基づき,スクリプトを書くことにより種々のビジネスソリューションが可能となる。ノーツが持つプラットフォームとしての能力は,ノーツ上でアプリケーションを開発する多くのサードベンダーを引きつけ,現在ではロータスの良きビジネスパートナーとなっている。

 ノーツの可能性を広げるベンダーの存在およびそれらベンダーとの協調関係は,ノーツに取って非常に大きなものである。

5.3.2 インターネットとの融合

 現在ロータスでは,Dominoというサーバを中心にインターネットとの融合に力を入れている。具体的には,サーバをインターネットスタンダードに準拠し,ノーツのサーバに繋がるクライアントは,ノーツのクライアントだけでなく,Webのブラウザでも構わないし,電子メールだけ使うのであればEudoraやNetscapeなどのメーラでも構わない,というスタンスを採り,ピュアなインターネットスタンダードの上だけで動くノーツの世界というのを目指している。

5.4 ノーツに関わった人々

 この節では,本報告書のテーマである「登場人物」という視点で,上述してきた内容を整理することにする。

5.4.1 初期の登場人物

 ノーツがその名を広く知られるようになるまでの登場人物を1.1節で例示した図に従い,分類する。

 まず,開発当初の段階では以下のようになる。

 ここで言う「かつぐ人」と1.1節で定義したそれとは若干,意味合いを異にするが,ロータスとしては,もしノーツが使いものになれば,売り広めようと考えて資金提供したけわであるから,結果的にはこのような図式になるのでないだろうか。

 ここでのロータスの役割は,結果論ではあるが非常に大きかったと言える。もしロータスが「かつぐ人」の役割を引き受けなかったら,今日のノーツはなかったかも知れない。余談ではあるが,現在強大な力を誇るあるソフト会社は,「かつぐ人」と成り得ることに興味も示さなかったそうである。

 次に,コンサルタント会社に認められ,その存在を広く知られるようになった段階では以下のような図式になる。

 ノーツの思想がコンサルタントのニーズとマッチしたことにより,「使う人」を獲得すると同時に,その「使う人」が「かつぐ人」にもなり,さらに「使う人」を増やす結果となった。このことが,ユーザニーズをより具体的にし,その後の発展に大きく寄与したものと推察される。

5.4.2 近年の登場人物

 ノーツをアプリケーションプラットフォーム(PLF)として捉えた場合の登場人物を図式化すると,以下のようになる。

 ここでは,サードベンダーがノーツを「使う人」としての役割を果たす同時に,ノーツアプリケーションの開発者として「作る人」の役割を担い,かつソリューションビジネスのために「かつぐ人」としての役割も担っている。

 最後にインターネットスタンダード上でノーツに関わる人々を以下に図式化する。

 ノーツサーバがインターネットスタンダードに準拠することにより,サーバのクライアントとなるブラウザやメーラなどのインターネットスタンダードなアプリケーションを開発する人々が必然的に「かつぐ人」となり,その結果,インターネットにアクセスできる世界中のユーザが「使う人」となる可能性がある。

5.4.3 「かつぐ人」の目的意識

 以上,ノーツに関った「登場人物」をその変遷と共に見てきたが,「かつぐ人」だけに視点を合わせてみると,興味深い結果が得られる。

 1.1節で述べた「かつぐ人」の定義を改めて紹介すると,「かつぐ人」とは,

 などである。

 これらに共通することは,当然のことではあるが,目的意識,特にノーツに関係することにより利益を得るという目的を持っていることである。

 この点に着目して,上述の「かつぐ人」の目的を順に見てみると,次のようになる。

 では,最後のインターネットスタンダードのアプリケーション開発者は,どうであろうか。勿論,彼等も利益獲得のために開発を行っているわけであるが,それは,ノーツとは全く関係のないところでの話である。

 つまり,彼等は自分たちの意思とは無関係にノーツの「かつぐ人」となっている。ノーツのインターネット戦略の上で彼等は,「かつぐ人」としての役割を背負わされているのである。勿論,この見方には,かなり独断的な要素を含んでいることを承知しているが,一つの視点を変えた捉え方として注目すべきことである。

 「かつぐ人」という役割は,「作る人」と「使う人」の間に立つ一番難しい役割であると同時に,その製品なり規格を広めるうえで,非常に重要な役割でもある。したがって,その役割を誰にやってもらうか,あるいはそのための戦略的を如何に推進するか,これらがスタンダードへの一つのステップと言えるのではないだろうか。

5.5 デファクトとは

 最後に,デファクトスタンダードに対する樋口氏の考えを紹介しておく。樋口氏は,製品なり規格を広く普及させるに,肝心なことはたった一つだけであると言う。それは,ノーツに関して言えば,電気を使って情報を共有することで,どのようにユーザの働き様を変えることができるか,如何にすれば仕事を楽にできるか,をピュアな姿勢で追及することであり,絶対に必要なことだと述べている。

 デファクトスタンダードとは結果論であり,未だにノーツをデファクトスタンダードにしようとは思っていないし,デファクトスタンダードとはそういうものである,と言う樋口氏の言葉を最後にヒヤリングを終了した。

(c)1996 JEIDA