第7章 まとめ −「エンドユーザー」という「役割」

7.1 「役割」という視点の導入

 この報告書では,技術的なトピックで内容を構成しつつも,その技術をとりまく社会の登場人物の,役割を検討するスタイルをとった。「個々の規格の社会に登場する人物をあげてその役割を考える」という視点を導入するにあたっては,いくつか狙いがあった。それらは,まず,ヒアリングの生々しさを損なわずに考察を深める基礎とすること,報告書が「技術決定論」的色彩を帯びるのを避けること,そして,報告書全体をまとめる枠組みを導入することであった。

 まず,さらなる考察については,この節の後で進めることにする。

 つづいて,「登場人物の役割を考える」という枠組みを設定すると,「技術決定論」的色彩を避けることができるのではないかと考えた。この背景には,昨年度の報告書について,規格の社会学を標榜しつつも「技術決定論」的色彩が残っていたことへの反省がある。「規格なり,標準といったものを評価するときには,技術的内容に目が行きがちだが,それだけでは済まない」と知りつつも,技術者が技術の動向を語ると「技術決定論」的になりがちである。「技術決定論」的とは,例えば「安価で日本語対応のエディタが販売されるようになれば,日本のオフィスでもSGMLが普及するだろう」と考えるように,規格の普及を,ツールの有無といった技術的問題に還元する考え方を指す。

 さらに,この「登場人物の役割を考える」という枠組みを設定することで,報告書で取り上げるさまざまな技術的トピックの間に,つながりを持たせられると考えた。さまざまな分野から講師を招いて行ったディスカッションをベースに,報告書を構成するので,単なるトピックの寄せ集めとならないように配慮したのである。

7.2 「役割」という視点の意義

 「役割」という視点を導入すると,各々の役者について具体的に考えるきっかけになる。このことは,我々のようにある規格の動向を外から評価する人々のみならず,規格を担ぐ人々や技術を利用する人々にとって,重要である。

 「個々の規格の社会に登場する人物をあげてその役割を考える」という役者の洗い出し作業を進めると,個々の役者の「顔」がどれほど具体的かを考える。「顔」とは,その役者の動機,規範,コスト意識などである。あるいは,「使う人」であれば,使う場面や使う目的である。これが具体的であれば,規格の動向をよりよく理解できる。また,特定の規格を普及させたい人は,「顔」が具体的に見える役者を,設定する必要があるだろう。

 また,一般的には「使う人」,というより「ユーザー」とは,「消費者」や非技術者,業務担当者,等を指すと思いがちであるが,さまざまな「使う人」がいることにも気づく。

7.3 「エンドユーザー」という役割

 役者の顔を考え始めると,「エンドユーザー」ということばが特殊であることに気づく。この報告書では「作る人,担ぐ人,使う人」という役者の分類を用意したが,特に「使う人はエンドユーザーだ」という言い方は,同語反復になっている。使う場面等さえも想定されていなければ,エンドユーザーとは,きわめて具体性に欠ける,「顔」のない役者だということになる。

 では,「顔」のある役者とは,どういうものか。「エンドユーザー」に置き換わるものとして考えると,それは,出版社の編集者,マニュアルのライター,印刷所のキーパンチャー,航空機の整備士,新薬の審査官,コンピュータのプログラマー,などである。「一般家庭で,自分の写真をテレビに写して楽しむ」という設定も,「顔」を持った役者である。これらの人々は,それぞれが文書というものに関わる具体的場面を想定できるし,リテラシの程度も想定できるし,費用対効果を考えることもできる。

7.4 「作る人」「担ぐ人」から見る「エンドユーザー」

 まず,規格を普及させたい立場からエンドユーザーを見る場合について,考察する。

 役者の中でも「使う人」に分類されるものについて,「顔」のある「使う人」を設定できるかどうかが,規格の普及において必要であると考える。では,エンドユーザーに「顔」があれば規格が普及するかといえば,そうではない。しかし,エンドユーザーに「顔」がなければ,その規格の動向はつかみずらい。規格を担ぐ人にとっては,規格が普及するかどうか,危うい状況だといえる。

 この点で,例えば,SGMLという規格は危うい。SGMLを例にとって,第3章に基づいて,この点を考えてみる。

 SGMLという規格を「使う人」は,ベンダーである。それにもかかわらず,エンドユーザーがSGMLを目的としてしまう場合がある。SGMLは,エンドユーザーに提供する製品やシステムという商品に,利点を持たせるための手段である。手段とは,他にもいろいろあるのであって,エンドユーザーの「顔」に応じて取捨選択するものだ。しかも,手段の選択は,エンドユーザーには直接関係ないのが普通である。ところが,しばしば,SGMLを目的と取り違える場合がある。例えば,「CALSが流行だ,CALSで文書といえばSGMLである,だからSGMLを導入しよう」という具合である。

 SGMLを「使う人」は,ベンダやSI業者といった人々であると考えるべきである。なぜなら,SGML規格(ISO 8879)によれば,SGMLの目的は,コード化やマークアップという概念の標準化という,きわめて技術的かつ抽象的なレベルにあるからである。SGMLという規格は,ベンダやSI業者といった「使う人」について,「顔」を想定すべきである。一方,SGMLでは,具体的な「顔」のあるエンドユーザーは想定されていない。わずかに,規格の背景から伺えるのは,出版業に携わる人々がエンドユーザーになるかもしれないという程度である。

 さて問題は,SGMLでは,その規定する範囲が,エンドユーザーの領域にも及ぶようだ,ということである。それならば,そのエンドユーザーの「顔」を,具体的に想定すべきである。そうでなければ,SGMLという規格の社会で,役者の役割分担すら難しくなる。SGMLを担ぐ人々が,次のように言うことがある: 「SGMLの想定する文書とは,その中に章,節,段落という,論理的な階層構造のあるものである」。そうなると,文書を作る人々は,その文書がSGMLという形式になることを意識せざるをえない。エンドユーザーも「規格を使う人」にならざるをえないのである。それにもかかわらず,DTD(Document Type Definition)という,エンドユーザーの「顔」に密接に関わるものについては規定せずにいる。このような状況で,「SGML文書は,標準文書だ」といった短絡的な言い方がされることも,SGMLの社会の危ういところである。

 SGMLという規格の決めている内容は,きわめて抽象的であり,具体的なエンドユーザーの「顔」には関知していない。それはそれでよいのだ。つまり,エンドユーザーにとって,SGMLは手段にすぎない。それにもかかわらず,「エンドユーザー」までも「使う人」に巻き込んでいることが,SGMLの問題である。このことは,第4章の内容ともあわせて考えたい。

7.5 「エンドユーザー」自身

 次に,規格や技術を使用する立場として,エンドユーザー自身について考察する。

 規格を担ぐ人にとって,「顔」をもったエンドユーザーを見出せるかどうかが課題だとすれば,そもそもエンドユーザーに分類される人々に,「顔」があるのだろうか。あるいは,その「顔」は,承知して選び取ったものなのだろうか。

 第4章を例に取ると,ワープロのモデルの違いは,そのまま文書を作る人々の文化の違いともなっている。この違いは,承知して選び取ったものだろうか。文書の中に,章,節,段落という階層構造を想定する英文ワープロを使っていても,正方形の文字を行に置いていくという,日本語ワープロの使い方をしてしまうのである。

 HTMLやXMLといった,編集可能だがレイアウトが可変なインターネットの文書は,英文ワープロ的である。他方,日本語ワープロは,「重ねて透かしてみてピッタリ同じ」ほどに忠実にレイアウトを再現するが,かつ,編集可能であることを求められている。HTMLのブラウザは世界的な市場があり,ベンダの戦略のもとにタダ同然で手に入る。さて,日本語ワープロのインターネットブラウザが登場するのであろうか。インターネットで電子化文書を交換する場合でも,この日本語ワープロの機能を,エンドユーザーは求めるのだろうか。いずれ,この選択をしなければならなくなるだろう。

 ここで問題にしたいのは,このような日本語ワープロを求めるエンドユーザーは,どんな規範やコスト意識を働かすのかということである。「そのような機能のプログラムを作ればよいではないか」といった,技術論的なことではない。たとえば,ベンダがSGMLを採用するとすれば,そこには必ずコスト意識が働いている。その選択で生き残っていこうという戦略もある。経済的に成り立つという,見通しがある。この章で取り上げてきた役割の「顔」とは,そのようなものである。

 国際的に電子化文書を交換するときのエンドユーザーの「顔」が,そろそろ見えてくるのではないか。そのとき,改めて第4章の議論を振り返ってみたい。

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