情報規格,および,情報規格に基づいて構築されている電子化文書処理システムの機能は,最終的には情報交換=人と人との間のコミュニケーションの手段としての機能に帰着する。そして言語を初めとするコミュニケーションの手段は,様々な形で個々の文化に依存せざるを得ない。
本章では,情報規格が社会に受容されるかどうかを左右する重要な要素として,情報規格および電子化文書の文化依存性の問題を取り上げる。取り上げる問題は,文字コードの問題から文書そのものの社会的機能,コミュニケーションにおける非言語的要素にまで渡り,かつ,主として欧米で開発された規格やシステムの日本への移入,適応に関する問題の例が多くなっている。
これらの例から導き出せる結論を先取りすれば,「文化的差異を埋めることは最終的には不可能である,しかし,その困難を明示的に意識することにより,溝を最小限にとどめ,不要な誤解を招くことは避けられる」ということになる。また,このような異文化コミュニケーションの問題を検討することは,単独の文化圏における情報規格策定の際にも,ともすれば自明なこととして意識に上らずに済ませてしまいがちな文化依存的要素を意識的に検討する一助となると考える。
Unicode/ISO 10646においてコード化されている文字を大まかに分類すると,以下のようになろう。
現代の言語学の一般的な了解として,言語の本質が音声言語にあるということは言を待たないが,音声言語と表記形との対応関係の相違によって,文化全体の中での文字に対する認識は異なっている。
ISO/IEC 10646に即応した最近の例を挙げると,モンゴル語の表記として,ある時期,モンゴル国内に古モンゴルの表記を復活させようという動きがあり,それに即応する形で10646への登録の議論がなされていたが,モンゴル国内において,表記形としてはキリル文字を用いる方向が趨勢を占めたために,旧来のモンゴル文字の登録が沙汰止みになったことがある。
また,最近の本項担当者らがマレーシアで行った調査では,マレー語におけるラテンアルファベットの記述とジャウィ(Jawi,アラビア文字をベースとする文字)による記述とが混在している。ラテンアルファベットとジャウィの使用状況は,言語政策や宗教的な背景により,地域や世代によってかなりばらつきが見られる。
即断は禁物ではあるが,ある文化圏で使用される言語と文字との対応関係が不即不離なもので安定しているという予断のもとに,言語の問題とそれに使用される文字の問題を混同することは,情報規格としての文字コードを議論する際にも厳に戒めるべきであろう。
地球レベルでの文字と言語の関係の相違とはまた異なるレベルで,漢字圏の中でも漢字コードの文化依存性が存在する。Unicode/ISO10646に即した文化(言語)依存の問題点は,いわゆるUnify Ruleに集約的に現れている。Unicode/ISO10646策定の際,実用的な理由から文字コードの範囲を16ビットに制限するという要請が特にアメリカの産業界から強くあり,その要請に呼応する形で,日本,中国,韓国および台湾の,当時の既存の文字コードを,字形に基づいて統合化した。この折り基準として用いられたのがいわゆるUnify Ruleである。この際,各国の事情の相違を反映した国内コードを温存したために(Source code Separation),さまざまな問題を残すこととなった。
以下に,いくつかの例を挙げる。
日本で用いられている「骨」の字形と中国で用いられている「*骨*」の字形の相違を無視して同一コードを振ることとなった。以下,表現の都合上,中国で通常用いられている字形を*骨*で表すこととする。
このことにより,「中国では骨のことを*骨*と書く」という,複数言語にまたがった論述を,現状のUnicode/ISO/IEC 10646の枠組みの中では,表記することが出来ない。この問題は,特に日本において,ISO/IEC 10646の採用に対する強い抵抗の論拠となっている。
しかし,日立製作所の小池建夫氏からのヒアリングによると,CJK-JRGの議論の場で,この問題が特に取り上げられたことはない,とのことだった。字形,字体,書体などの広い意味での漢字の形のゆれをどこで区切るか,という認識自体,日本国内でもゆれがある。そこに国における文化の相違が加わるのである。日中韓においては,先に挙げた言語とそれを表現するための文字としての漢字との関係に対する認識が,かなり深いレベルで異なる。
このような背景から,日本において,「骨」「*骨*」問題が話題になること自体が,なかなか理解されない面があるようである。いわば,「中国では骨のことを*骨*と書く」という論述自体が意味をなさない,この論述が出来なくてどのような不都合があるのか,という認識である。
国内において,その国の文化に依存する形で問題が存在する場合,単に規格の不備として声高に不満をぶつけ,規格を否定するような態度は,戒めなければならないだろう。むしろ,「文字に対する認識は国や文化によって異なる」という認識の下に異文化としての日本の文化土壌を説明した上で,個々の問題の情報交換における必要性を判断しながら,具体的な規格の改訂要求にまとめ上げていく必要があろう。
各国の既存の国内規格で分離してコードが振られていた文字に関しては,それぞれの国内規格を尊重し,異なるコードを振ることになった。そのため,Unify Ruleの一貫性が保てなくなっている。(口高と梯子高の例など)
韓国では,同じ字形でも意味により発音が異なる文字には,複数のコードを割り当てている。この部分で,国内コードとの一貫性を保つために,同一字形の文字に複数のコードが割り振られることとなった。(Restricted ZoneにあるCJK COMPATIBILITY IDEOGRAPHS)先にも触れたように,ここでも,音声言語とそれを表現するための文字との間の関係認識の,文化的な差異が端的に現れている。
ISO10646策定の初期段階で日本側委員として係わられた和田英一氏は,中国は「義」,日本は「形」,韓国は「音」で,文字コードを制定していると言及されておられるが,言い得て妙である。
現在,ISO/IEC JTC1/SC2/WG2/IRGで議論されている,CJK統合漢字の拡張の例を取っても,香港や台湾などでの,移民の受け入れの際の登録のために次々創成されている漢字をISOに登録する要求がある。この場合の新規に創成される漢字は,限りなく個人のアイデンティフィケーションに近いものであり,それが漢字の持つ生産性の高さと結びついたものと考えられる。その背後には,構成要素を組み合わせて新しい漢字を創成することに対する,文化的背景としての総体的な抵抗感の少なさが存在するようである。
日本においては,古くは国字問題に始まり,人名や地名などに用いられる異体字,俗字の類に関わる議論など,すぐれて日本に固有の問題と言えよう。これらの文化依存の問題が,それぞれの国や地域の文字コードの策定に反映されており,国際規約策定の際にその文化依存性を温存せざるを得なかったために,Unification Ruleにおける不整合が生じたと捉えることが出来よう。
このような文化的差異を,情報標準の策定,運用の局面において,どのように認識し,解決を図っていくかは,情報交換の適応範囲と交換される情報のレベルの広範囲/高度化と相俟って,ますます重要な問題となっていくと考えられる。その際,文化的差異には究極的には相互理解不可能な部分が必ず残る,という認識と,それにもかかわらず,いたずらに差異のみを強調するのではなく,可能な範囲で最善の努力をする,という態度が不可欠であろう。
日本と欧米の文書に対する考え方の相違について述べる。日本と欧米では,使われる文字の種類,縦書き,横書きのレイアウトのバリエーションといった明白な相違が存在する。さらに,文章構成法,句読法といったレトリックに関する事項,文書が持つ法的・制度的な意味合い,文書に対する個人,組織,社会の姿勢,文書に関する専門家を育成する教育の相違など,必ずしも明確ではないが日本と欧米とでかなりの相違が見られる文化的とでも言うべき幅広い分野が議論の対象になり得るであろう。ここでは,困難なテーマではあるが敢えて以上の文化的な概念について論ずることとする。
私はかつて米国の大学で学んだことがある。留学生向けの英語の授業で用いられたレトリックの教科書[Rob71]には,世界各国における文章の論理展開について記されていた。それによると欧米における論理展開はストレートであるのに対し,アジア諸国の論理展開は,結論の周囲をスパイラルに回転すると記されていた。アジアの人間の一員として,それは説得力のあるものであった。
英語における作文教育は系統的である。先ず,アウトライニング手法による作文主題の構想の記述からはじまる。書きたい主題を決め,主題を展開する目次に相当する項目を決める。すなわち,その主題を選択した背景や理由,主題の構成要因,要因の分析,その分析を裏付ける事例の紹介,結論といった骨組みを設定し,さらにその骨組みに肉付けを行って文章を完成させてゆくのである。
肉付けの段階では,まとまった内容毎にパラグラフを設定して内容を展開させる。その際には,必ずトピックセンテンスを設定し,読者の理解を容易にさせることを心がける。パラグラフの設定に際しては,たくみに接続詞を使って,具体例を示したり,反対の事例を対比させたりして,読み手が興味を持つように展開してゆくのである。
以上は言わばトップダウンによる文書の作成である。あたかも文書における章立てを決め,目次を作成し,それを詳細化し,さらに具体的に項目を埋めて行くような,一般の大規模文書作成作業に近いのである。米国における作文教育の基礎は,SGMLにおけるDTDに基づきインスタンスを生成する作業を彷彿させるものがある。米国においてSGMLが容易に普及する理由は明白である。
以上の米国の状況に引き換え,日本における作文の教育は,系統的に行われているとは言えない。私の経験では,日本の国語の教育において,文章構成や論旨の進め方等に関して指導された経験はない。私同様,原稿用紙を前にしてうなった経験をお持ちの方が多いのではあるまいか。とにかく書き始めてしまい,後は筆の勢いに任せて書き進むというのが日本的な作文法であろう。天才的に文章が上手な人はともかく,一般の人は作文に自信を持てるような方法ではない。このような作文方法なので,読書感想文や旅行の感想などを書くことはあっても,自分の意見や主張を説得力ある文章で記述することなど望むべくも無い。
以上のような作文の方法では,書き始めてから結論に至るまで,紆余曲折を経ることになり,米国のレトリックの教科書が指摘する如く,結論の周囲でスパイラルを描くことになる。リファインすれば,起承転結のようにすっきりした展開に移行させることも可能かもしれないが,言い回しが困難な場合も多い。その状況は,英語からの翻訳で言い回しに苦労する場合と同様である。
論理展開に関する欧米のストレートな表現とアジアのスパイラルな展開との差異については,さらに分析する必要があろう。欧米のストレートな表現の背景には,内容を直接,簡潔に伝達するプロセスとして,最適な文書作成方法を用いているという気がする。それに対し,アジア的なスパイラルな展開は,直接的な表現を避け,相手にそれとなく察知させるというような,見方によっては,高度な知的手法が包含されているようにも思える。そのような文章表現は,内容を伝達するという本来の目的以前に,文書を伝達するに当たってのプロトコルが極めて重要であることを示唆している。敬語表現,手紙における時候の挨拶など,内容以前に礼儀として書いておかねばならないことが定義され,それに合致しない場合には,プロトコルレベルで拒否されてしまうのである。
このプロトコルは,必ずしも明示されているわけではない。言わば仲間とそうでないものとを区別するフィルターである。仲間うちでは,明示的に情報が伝達されなくても雰囲気で暗黙裏に情報が伝達される。所謂,腹芸の世界である。
このような情報伝達の世界で,的確に状況を把握し行動する人は粋であり,そうでない人,すなわち一々説明を必要とするような人は野暮である。まして,文書を用いるようなことは野暮の最たるものであり,このような社会にあっては,当然のことながら記録文書は残らない。
以上のようなプロトコル重視の社会では,プロトコルが正常に機能して順調に社会が営まれることが重要である。それに対し野暮の最たるものである文書を用いた意思疎通,それも一々くどくどと内容が説明されたものなど恥とでも言うべきものになる。要するに,文書の記録などは,世の中が順調であれば本来存在する必要など無いものなのである。文書が存在すること自体,問題があることの証左なのである。日本では証拠隠滅のために文書を廃棄したり,存在しなかったことにすることがしばしば行われるが,その理由は以上のような文化的な背景に基づいていると考えることが可能であろう。
ルース・ベネディクトは,欧米の文化と日本の文化を対比させて,罪の文化と恥の文化と呼んだ。以上の日本の場合の指摘から推察されるとおり,この洞察は,実にドキュメント文化においても正鵠を得ていると思われる。以下に罪の文化における文書への考え方を考察しよう。
欧米では文書は正確な記録であることに価値がある。正確な記録とは,事実が記されているということと共に,真実であるという信念,言わば個人の信仰告白とでもいうべき記述が文書の原点を作り出していると思われる。
欧米において,文書というものの原点はキリスト教の聖書にあると言えるであろう。聖書は神の言葉であり,罪深い人間が救済されるための貴重なメディアであった。聖書の言葉をその人の人生の原点として生きた人は数限りない。
特に重要な記述としては,神が人間に直接送ったメッセージである「モーセの十戒」が記憶されねばならないであろう。この神からのメッセージは石に直接刻み込まれたと記されている。このことは,メッセージを刻み込むということにドキュメントの意義があることを象徴している。十戒が物理的に刻み込まれた石板は「契約の柩」に収められ,イスラエル民族の象徴であったがその後の戦乱で行方不明になっている。しかし十戒は,旧約聖書を通じて全世界に知れ渡った。
旧約聖書が全世界に知られるようになったのは,偶然ではないであろう。その内容はユダヤ民族にとっての倫理観,世界観,歴史観を記述したものであるが,その内容の訴求力が多くの人を引き付けたからであろう。また紀元前後に出現した新約聖書は,人間の救済を民族という単位から全人類に拡大した。その結果さらに影響力をもつメディアとなった。新約聖書のメディアとしての位置づけは,ヨハネによる福音書に記述されている。
はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。
福音書の著者であるヨハネは,ヘレニズム時代のギリシャの影響を強く受けている。神学的であると同時に哲学的である。
聖書の解釈は読み手が勝手に行ってよいものではなく,正しい解釈が必要であった。正しい解釈は,カトリック教会によってなされ,それに基づいて人々の行為は評価された。カトリックの司祭は人々の告白を聴き罪を赦す権威を与えられていた。人々は罪を正直に告白し,それにより地獄の裁きから赦されることができた。
宗教改革により,カトリック教会の権威は低下したが,カトリックの司祭に代わって人々は祈りを通じて直接に神と会話するようになった。聖書の解釈も個人で行うようになり,それが人々の生活規範に結びついていった。グーテンベルグの印刷技術はそのような時代的な背景の下に発明され普及した。人々が聖書を求めたのは単に興味深いとか知識になるというようなものではなく,魂の救済の問題であったためである。
文書による契約の概念は重要である。米国の歴史の第一歩として記されるのは,メイフラワー号によるピルグリム・ファーザーズによるプリマス上陸であるが,このときに上陸した人々によってメイファラワーコンパクトという契約が結ばれた。契約とは,皆が生活してゆくためのルールであり,違反した人は相応の罰が科せられた。
重要なことは,参加資格を持った上で契約(文書)が作成され,総意の下に承認されるのである。民主的な手続きが文書のライフサイクルの下で行われていることに注意する必要がある。また,契約とは,単なる口約束ではなく,書かれた文書であることも重要である。また,書かれた文書とともに,作成者,承認者としての署名も極めて重要な意味を持つ。文書が,単にそれ自体の意味だけではなく,作成,承認というライフサイクル上の位置づけとしての役割を持つからである。
以上から分かるとおり,キリスト教社会において,真実とは極めて重要な概念である。それは自分の魂の救済に関係するからであろう。そのためには,言葉,文書も真実を伝えねばならない媒体となるのである。
この委員会では,電子化文書議論にとどまらず,一般の文書における文書構造についての議論にも度々及んだ。それは,今後電子化される文書が現在よりもさらに広範囲の種類にわたり,情報処理の観点から論理構造情報の付与が求められるという見通しに基づいている。しかし,どの範囲の文書を議論の対象にするかを決めずに論議したために,論理構造については漠然とした意見が多かったと思う。
先ず,議論の中で,わが国における文書には論理構造情報が乏しいという指摘がなされ,その原因を欧米とのワープロ機能の違い,さらに文化や教育の違いに求める意見が出た。しかし一方では,わが国における文書には過剰なまでのレイアウトが施されており,それらが論理構造を反映しているという意見も出た。
前者の意見は,文書で論理構造を明示するということがSGMLのような文書形式で処理することを暗に前提にしている。しかし,明示したとしても指定次第で,後者の意見でいう「論理構造を反映したレイアウト」と余り変わらない程度の情報の付与にとどまるかもしれない。
一方,後者の意見は,レイアウトだけでは論理構造を十分に反映できないという問題を含んでいる。また,文書データのレイアウト情報がその文書データを作成した処理系の固有な文書形式に依存するために交換しにくいという問題もある。
そもそも文書データに論理構造情報を含めようとする動機は,コンピューターによる自然言語理解技術が実現しそうにないという認識が出発点である。もしそうした技術があれば,いわゆる「棒打ち」の文書データをコンピューターに入力すれば,直ちにその論理構造が解析されるだろう。しかし,その実現が遠い将来になるという見通しの中で,コンピューターを人間が支援するために文書データに論理構造情報を含める方法が採用されたわけである。ちなみに,文書記述言語SGMLが制定された1986年から現在に至るまでの自然言語理解技術の進展を考えると,賢明な選択であったと思われる。
この出発点を忘れると,わが国の言葉には論理性がないというような為にする議論となってしまう。文書への論理構造情報の付与は,コンピューター処理可能な,かつ処理効率を求める,事務文書や論文のような応用に限定すべきで,一般の文書を対象にすべきではないだろう。
今後,文書データに論理構造を容易に含められるワープロやエディターを開発し普及していくことも大事であるが,アンテナハウスのTagMeのように,文書データのレイアウト情報から論理構造情報を抽出するコンバーターの開発や普及も,既存の文書データを情報資源として生かしていく上で必要なことである。一般の文書については,自然言語理解の機能を内蔵したワープロやエディターの登場を待つだけである。
今後の課題としては,「普通の使う人」へヒアリングを行ない,情報処理の観点から論理構造をどう考えるかを明らかにすることが挙げられる。
この委員会では,規格の成立から普及に関わる人々の役割に焦点を当てたが,紙の文書を前提にした社会が電子化文書をどのように受容しているかという調査が足りなかったように思われる。
紙の文書と電子化された文書を比較すれば,当然ながら一長一短がある。かって現われた極端な意見,すなわち電子化された文書が紙の文書を凌駕し,さらには駆逐するといったような意見は,この委員会では流石に出なかった。
文書の内容と媒体とは直接関係はないのだから,比較は媒体論にしかならないかに見える。しかし,インターネットのウェブでは文書は細分化・断片化され,さらに日々更新され,紙の文書のような完結性は崩れつつあり,ネットワークでは情報としての文書内容の捉え方に大きな転機が訪れてようとしている。
最も強調されたことは,電子化文書が紙媒体よりも情報処理の面で格段に効率が高く柔軟性があるという点である。しかし,現在の企業や官公庁などが紙文書から電子化文書へ切り替えていくための文書処理システムはまだ確立しておらず,導入したとしてもその運用が当事者や関係者に浸透するにはかなりの時間がかかると思われる。また,法制度の整備や運用面の改革が必要であるが,まだ十分な状況ではない。
現在,データベースに蓄積した情報を紙へ印刷したり,インターネットのウェブで発信したり,CD-ROMへ焼き付けたりするといった,様々な用途向けへの展開が計られているが,そうしたワンソース・マルチユースのワークフローは確立しているわけではない。例えば,DSSSLが制定されSGML文書を変換指定する方向は打ち出されているが,具体的なツールの機能はまだ十分ではなく,応用個別での対応の域を出ていない。
結論として,この委員会のヒアリングで調査したとおり,様々な目的の電子化文書の交換様式はあらかた登場したが,それらの間の交換(変換)処理については普及の緒についた段階であると言える。文書交換様式に関するいかなる公的規格が制定されても,他の公的規格や事実上の標準との交換が困難であれば,畢竟,市場で淘汰されることになる。しかし,公的規格ゆえに「使う人」からの厳しい批判がなければならないと思う。わが国で最も欠けているのはそうした動きではないだろうか。
ここで論ずる企業文化とは,企業における文書管理に見られる特有の傾向とでも言うべき事柄で,一般の概念としての企業文化ではない。企業の文書処理における文化的な事項については,日本と諸外国との比較を通じて行うのが一つの方法である。諸外国との比較とは言っても,欧米以外の諸外国については,日本では殆ど議論の対象にならないので,単に欧米との比較になってしまう。
企業の文書処理における文化的な事柄を論ずるに当たり,考慮せねばならない要因としては,時代の変化に伴う文化的側面の変遷を考慮する必要がある。特にコンピュータのハード,ソフトの進展は急激であり,最早そのインパクトを抜きに企業における文書処理を論ずることは不可能である。
ここでは,欧米との比較,電子化によるインパクトを中心に,現状の日本に特有な企業文化の問題を考察する。
欧米における文書処理システムのワークフローは,既に確立されているバーティカル・ファイリング方式をコンピュータ・ネットワークに置き換えたに過ぎない。Interleaf社のDTPシステムのフォルダ,ドロワ,キャビネット,デスクトップの概念はバーティカル・ファイリングの延長上にあり,ワークフロー管理ツールRDMもバーティカル・ファイリングのワークフローをコンピュータネットワーク化したものに過ぎない。ロータス・ノーツによるワークフロー管理も,RDMのパソコン版に過ぎない。
欧米におけるワークフロー管理方式は,前項のメイフラワー・コンパクトの事例で見たとおり欧米的な民主主義制度の価値観と不可分である。文書の作成,修正,承認といったプロセスは,民主的な組織における,提案,審議,決議のプロセスと等価である。その最たるものは,議会における法律文書の作成の場合であろう。議員立法の場合であれば,民主的に選出された議員が法律案を作成し,委員会などの審議にかけ,必要な修正を経た後に,本会議で裁決されるプロセスに相当する。
承認された文書の配布プロセスは,情報を知り得る立場にある人なり組織なりに,情報を伝達することである。先の法律の場合であれば,成立した法律を実施するために,官報として行政機関における広報部門を通じ広く情報を公開することに相当する。
保管,保存のプロセスは,承認され配布された文書を,公的に参照される対象として保管期限まで正式に管理することである。法律の場合に当てはめれば,法律の有効期限まで,その法律の適用を確認するようなものである。単に保管・保存というと静的に聞こえるかもしれないが,法律における司法機関のように,文書が有効に機能するように監視することも保管・保存プロセスの役割である。
以上のワークフローは,規格制定にも適用される。例えば,OMGにおける規格制定のフローを考察しよう。
以上のプロセスは,以下に述べるように複合的なワークフローにより構成されている。
すなわち,OMGの規格制定に関しては,タスクフォースレベル,技術委員会レベル,アーキテクチャボードレベルの3階層における複合的なワークフローが関与している。上位ワークフローにおいては,下位組織の承認文書が下位組織による作成文書として位置づけられ,審議(修正)・承認の対象になる。
なお,審議される規格案には,ユニークな文書番号(一般には,OMG Document yy-mm-xx または,OMG Document TF-Name/yy-mm-xx)が付与され,規格として制定された後もその文書番号によりアクセスされる。
なお,このワークフローを含む文書規定は,OMAガイドと呼ばれる,OMGにおける憲法のような文書の付録に記載されている。最大の規模を誇るコンソーシアムであるOMGの規格制定に関する文書ワークフローは,明解かつオープンである。見方を変えると,多様な意見を集約し,最終的にはその対立を多数決原理で決めるという民主主義のルールそのものである。
日本における文書処理カルチャーを論ずるにあたり,先ず
という問いが存在する。現状の多くの日本企業が,欧米的ワークフロー管理を行っていないことは明白であり,それに起因してISO9000の取得に苦労しているのは衆知の事実である。かといって,欧米的ワークフロー管理とは異なる日本的な管理方式が存在するだろうか?
バブル前期に話題になった,いわゆる日本的経営,集団主義,年功序列,終身雇用,企業への忠誠心・参加意識などがその中核的な概念であったと思うが,これらの概念を日本発の非欧米的ワークフローとして定義可能であろうか。
西欧流の決め方との基本的な相違は,極力意見の対立を避け,「和を以って貴し」というような全員一致の合意とする点にあると思われる。バブルの崩壊とともに,日本的経営の良さを賞賛する論調は全く影を潜めたが,その全てが幻想であったわけでもないであろう。
今だに製造業や家電業界の優れた製品品質は日本企業の得意とするところであり,これらのノーハウをワークフローとして抽出することはできないであろうか。この品質の成果は,ISO9000のよう組織的な責任体制の明確化を文書管理を通じて達成するのではなく,現場の技術者や管理者の自主的なプロ意識と誇りを鼓舞することにより達成されるものであろう。
そのような面では,西欧流のワークフロー管理とは異質なものである。せめて,これらのノーハウを用い,西欧流ワークフローをモディファイするかとが出来ないものであろうか。おそらくは,ワークフローというよりは,ワーキングスタイルの相違に起因するものであろう。西欧流の個人主義ではなく,グループとしての達成感,誇りといった要因が高い品質を形成すると思われる。
この問題については,製造業や家電業界の方にぜひご一考をお願いしたいが,たとえ解答が得られるにしろ時間を要する問題であろう。
先に欧米流のワークフローの一例として,OMGにおける規格制定のワークフローを概観し,考察したが,それと対比させるべき日本における同様な事例として,日本における規格制定のワークフローを概観,考察することを試みよう。もちろんこのような検討はわれわれにとって楽しいものではないが,この際必要なプロセスであると考える。
日本において情報処理関連の規格を制定している組織としては,規格協会,電子協,情報処理学会などが挙げられる。これらの組織に共通に見られる特徴は,大学や官公庁,大手企業,中堅企業の代表者による審議会方式が採用されていることである。これでは限られた社会での閉じられた作業と言わざるを得ないであろう。このことに関してはわれわれの委員会も例外ではない。
幅広い組織や企業から代表者を選定すれば,それなりに公的な重みを持った規格を制定することは可能であると思われるが,それでもOMGに見られるようなオープンで民主的なプロセスとは言えないであろう。特にベンダーの技術者を中心としたメンバーのみにより構成される審議会では,作成側の論理によって規格が審議されることになる。
今回の報告は「エンドユーザ」の視点を重視しているが,「限られた社会での閉じられた作業」によっては所詮,エンドユーザの意見は反映されないであろう。エンドユーザの視点を規格に生かすためには,エンドユーザの代表を委員に加えることである。因みに申し上げると,OMGでは,設立初期の時点から,EU-SIG(End User SIG)が活動しており,会員企業とは別枠で技術委員会における投票権を付与されている。
なお,結果的にではあるが,今回の委員会において見城委員の役割がエンドユーザ代表であったと見ることも可能であろう。その見方をするなら,見城委員をメンバーに加えることにより,今回,図らずも,エンドユーザ代表というものを審議会に加える価値を実証したと言えるであろう。
以上,西欧流の文書管理が電子化文書の管理と融合しワークフロー管理システムを形成しつつある状況と,それが多数決原理を基本とする民主主義と深く関連していることを述べた。
以上の問題は,一般論としての問題でもあるが,金融ビッグバンを迎えた1998年4月の日本において特有の問題でもある。現在の日本の金融業界の状況は,深刻な状況と考えられているが,3月危機は乗り切ったとか,種々の言い方がなされている。これらは単にマスコミが報じている情報に過ぎない。
真に深刻な問題は,正確な情報が公開されず,多様な意見が形成されず,それらの意見が議論されず,結果的に国民的なコンセンサスが形成されない点にある。基本的には情報の公開の問題が大きい。情報の公開の問題とは,実は非公開情報の明確化に他ならない。情報の公開をデフォルトとするためには,情報を非公開とするためのルールと定義をその情報が対象とする人々のコンセンサスの下に決めることである。実はそのようなものが組織における文書管理規定のようなものであり,文書管理の基本となる文書なのである。
文書管理のルールが不在の場合,デフォルトは文書の非公開にならざるを得ないであろう。非公開な文書の集積は,多くの整合の取れていない情報の集積にならざるを得ない。ワークフローにおける作成・編集・承認プロセスは,他の情報との整合性の確認のプロセスでもある。日本における文書管理の実態は,不整合文書の集積状況に近いのである。昨年,動燃における情報管理の杜撰さが問題になったが,日本の多くの組織においてその状況を他人事として見るわけにはいかないのである。
グローバリゼーションとは,見方を変えれば,ビジネスの米国化に他ならない。要するに,英語とドルを用いてビジネスを行うからである。さらにワークフローも米国流にならざるを得ないであろう。先に述べたワークフローの日本的なモディフィケーションは,期待されても間に合わないであろう。むしろ「黒船」としての欧米流ワークフローに晒されることによって日本的なモディフィケーションは可能になるのかもしれない。
明治維新以来,130年を経て日本が到達した地位は,非西欧でありながら西欧並みの生活水準に到達したことにある。日本以外のアジア,中近東,アフリカ,中南米の非西欧諸国は,経済的離陸もおぼつかない状況にある。これは,戦前の富国強兵,戦後の高度経済成長という官僚主導の国家方針が存在したから成し得た成果であろう。このような物質文明的な成功は,バブルがはじけた今日,精神文明的な危機をもたらしているようにすら見える。
これらの問題は明治初期に西洋文明を取り入れるにあたり,「和魂洋才」の方針を採用したことに関係していると思われる。グローバリゼーションに対しては,どう見ても「和魂」では通じないのである。「洋魂」を採用するには至らなくとも,理解することだけは要求される。その「洋魂」とは,西欧流の民主主義であり情報公開に基づく多様な意見の集約プロセスであり,それらを支援する文書管理のカルチャーである。
以上の問題は21世紀の日本の課題となるであろうが,その解決は,現在,経済的な離陸を目指している数多くの非西欧諸国のための貢献にもつながるものであろう。
言語ならびに文字がすぐれて文化に依存もしくは文化を表象していることは疑いえないが,では言語ならびに文字が,文化のすべてを表象しているかというと,これもまた疑問の余地無く否定せざるを得ない。
では,電子化文書およびその標準化に係わる規格を対象とするとき,文化の非言語的側面,なかでも情報交換に係わる非言語的側面は,どのように捉えるべきであろうか。
残念ながら,本委員会では,この問題に関して,深く議論する機会を持つことは出来なかった。しかし,今後の課題として,電子化文書における非言語的コミュニケーションの問題の検討,および情報規格の対象としての非言語的コミュニケーション要素の検討は,非常に重要であるとの認識を持っている。
以下に,本委員会でのヒアリングに含まれていた要素および筆者が見聞した範囲で,いくつかのトピックを列挙することにより,問題提起に代えたいと考える。
MIDIの派生規格として,音色データを規定するGM規格というものが存在している。この規格は,ローランドの提案によりMIDIを担うコンソーシアムで策定されたものであるが,当初ローランドが提案した和楽器の楽器名が,英訳すると同一にならざるを得ないような中国の楽器名と混同され,結果的には規格にある種の曖昧性が混在してしまった例が,報告されている。
音色という,すぐれて非言語的な要素を音色名という言語要素に対応させる際に生じた問題点として,注目に値する。
また,ヒアリングの例ではないが,本委員会で本項目担当者がXerox社のRichard Ishida氏よりうかがった,ディスプレーパネル等のアイコン表示の問題がある。すなわち,一般に行為の中止を促すマークとして用いられる手のひらを相手に向けて広げた形のアイコンは,ギリシャにおいては相手を侮蔑する意味を強く持つので,ギリシャ向けの製品への組み込みは避けなければならない,というものである。Ishida氏は,製品の国際化における文化差異問題の第一人者であるので,このような例を数多く持っておられる。この例など,ある機能とそれを表象するアイコンの関係が,文化依存的であるといういわば冷静に考えれば常識ともいえるテーゼの好例であるが,ともすれば,われわれは,われわれ自身が文化依存的な存在であるがゆえに,このテーゼを看過しがちである。
もう一つだけ,例を挙げる。これは,財団法人国際情報化協力センターにおいて委員会を設けたり調査を行ったりしている問題であるが,OSやアプリケーションにおいて色を指定するために用いる名称の混乱の問題がある。これも,先に挙げたMIDIの音色の例と類似しているが,ある物理的な色彩の値に対して,どのような名称を与えるか,という問題である。現実には,同一メーカーのオペレーションシステムやアプリケーションの間でも混乱が生じており,色彩認識に係わる文化的差異を考慮に含めると,非常に多くの選択肢が内包されており,一意的な名称付与,対応関係の明確化が,ユーザにとって望ましい方向であるとは,一概に言えないと思われる。
今後の検討課題として,電子化文書における非言語的伝達要素の抽出検討,情報交換におけるその標準化の可能性/不可能性の検討と必要性の検討を挙げることが出来る。特に,文化的差異が(言語的問題も含め),突き詰めていくと本質的な情報交換の不可能性を内包していることを考慮し(村上陽一郎氏は,これを共約/共訳不可能性と呼んでいる),何が情報として交換可能であり何が不可能かを十分に検討する必要性を強調しておきたい。
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